結婚した年の夏、夫と湖で遊んだ事がある。小雨降りしきる中、傘もささずに湖畔の道を歩いた。冷やりした雨が心地よかった。夫は、そのとき夢中になっているもの、小説について語ってくれた。自分もいつか、良い小説を書きたいと言っていた。
「山深い森の中、そこで、長い髪の美しい女が一人、川辺で暮らしているんだ」
     ***
女は、おばあさんの一人子だったが、おばあさんが死んだ後も、いつまでも二人で暮らした家を離れることができなかった。そんな家に、ある月明かりの夜、男が一人やってくる。醜い男、しかし、とても清らかな心を持っていた。男は、月の美しい晩になると、いつもやって来るようになる。決して女の前に姿を現さないが、物陰から女に声をかけ楽しい話をする。男は、月のこと、風のこと、森のこと、いろいろなことを知っていた。そんな日が何日も続き、女もいつしかそれを楽しみにするようになる。月の出ない夜が何日も続くと、女は、我知らず頬杖をついて、雲の向こうの月を思いながら、その男のことを想うようになる…。
     ***
夫は、小説を書き終えることができただろうか?私は、夫を愛している。私を愛していないかもしれない夫を、今も愛している。夫がもし小説を書くことができずにいるのなら、私が夫の小説になりたい。