家から湖岸までは、ゆっくりと、20分間の距離だった。その間を、彼は私の少し前を歩き、互いに一言も喋らなかった。途中、辺りに高い建物が無くなる一本道で、時折強く吹き付ける風に、長い間かけて伸ばしていた髪がむちゃくちゃになびいた。私はその都度、髪を押さえつけるのに大変だった。その夜の空は格別に明るく、真中に大きな月があった。何かを予感させる光を放っていた。
湖に面した公園、その中を歩いて行くと、噴水がある。噴水を取り囲むベンチでは、一組の男女がひっそりと会話していた。私たちは、その近くを通るのを避けて、なおも湖に向かって歩いた。そして程なく、湖岸に出た。空は薄明るく、湖面は真っ暗だった。しかし不思議と怖くはなかった。
浜辺の、アスファルトの段差に腰かけた。足は浜の砂の上にあり、波の音がすぐ近くで聞こえる。それは、心を優しく包み込むようなあたたかな音だった。
「ねぇ」
「何?」
「…調子どう?」
「特に。良くも悪くもないかな」
「そっか」
「そっちは?」
「…僕も、悪くないよ」
「そう」
遠くで小さな打ち上げ花火が上がる。高校生だろうか、数人の笑い声が聞こえる。
「大学は?」
「楽しいよ。でも、それもあと半年ね」
「そう、たった半年。単位は?」
「あとは卒論だけ。あなたは?」
「卒論と他に少しあるけど、前期で大丈夫だと思う」
「そう」
風が吹き、髪が大きくなびいた。乱れた髪を必死に手で押さえつけたけど、それでも、肩の下まで伸びた髪は彼の頬にふれた。私達は、それくらい近くに寄って座っていた。
大きな波が、いくつか浜に打ち寄せる。
「髪、長いね」
「…伸ばしたの。ここまで伸ばすのって、大変なのよ」
「昔は短かった」
「変?」
「いや」
「似合う?なんちゃって」
「…うん、ずっと良い」
静寂。気付けば、琵琶湖の葦原がさらさら音を立てている。コートの中で、体が熱くなる。私として、精一杯の伝え方をしようと思った。
     ***
「くらべこし…」
「…?」
「くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき。筒井筒、高校の古典で習った。覚えて、ない?」
「…もう忘れたよ」
「…」
私は、高校の古典の授業ではじめてこの話を聞いてから、今までずっと心に留めていた。伊勢物語の中で、この段に最も心惹かれていた。
「どんな話?」
     ***
「…昔、男がいた。男には、幼なじみの女がいたの。二人は、お互いに近所同士で、幼い頃にはよく井戸のそばで遊ぶのが楽しかった。友達どおし、いつも語らって井戸の水鏡に映る互いの顔を覗き込んでは、にっこり笑いあっていた。長じて、成人となった二人は、男の方から女に想いを打ち明ける」
「すると女の方でも、男と同じ想いを抱いていて、そうして二人は恋人となった。そのとき、女が想いを伝えるために詠んだのが、さっきの歌…」
     ***
彼の方に顔を向けることができなかった。恥ずかしさで、一杯だった。琵琶湖を見ると、真っ暗だと思っていた湖面には月が映っていた。くっきりと、それでいて波にたゆたっていた。
「…誰か、良い人はいるの?」
「…」
「いるんだろうな」
いない、と言ったが、声にならなかった。
「ねぇ」
「…何?」
「そのとき、男は何て言ったの?」
彼の顔を見た。彼もまた、琵琶湖に映る月を見つめていた。真剣な眼差しだった。
「筒井筒の中で、男はなんて言って、女に想いを打ち明けたの?」
「…筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」
風。もはや髪は気に掛けない。
     ***
「つついつのいづつにかけしまろがたけすぎにけらしないもみざるまに」
「え?」
「筒井筒 井筒にかけし …。僕じゃダメかな?」
     ***
二人、その夜の月に化かされたのだと思う。でも、それでよかった。大学を卒業して三年目の春、彼と結婚した。それで、私は本当に幸せだった。