「でも、いつも思っちゃうんだ。能楽堂を出たら、あたりは真っ暗になっていて、他の人に混じって、でも一人、ぞろぞろと駅まで歩いて、何台もの車に追い越される。やっと駅について、切符を買って、ホームで電車を待って、少し待てば、電車は来る。乗る。吊革につかまる。ふと、窓ガラスに、立っている自分の姿が映る。そんなとき、どうしても思わずにはいられないんだ。」
「何を?」
「つまり、あぁ、結局、僕は、観るだけかって。どうしても思っちゃうんだ。止まらないんだ。最近、日に日に強くなるんだ」
     ***
「相沢君」
「何?」
「ほんとに、変わらないのね」
「え?」
「同じことを、いつも言ってたわよ。私に」
     ***
小説を書きたい、書きたいと思って、何一つ書けないまま、大学の4年間は終わった。研究室に残る道もあったが、迷わず就職した。人生って、こんなものかという諦めに近いものを感じていた。それでよかった。それに、それでじゅうぶん楽しかった。好きな小説を読み、映画を観、音楽を聴き、能を観る。忙しい日常の合間を縫って、自分の好きなことが出来る時間が、わずかでもあれば、いいと思っていた。好きなことを聞いてくれる相手があって、その人とずっと一緒にいることが出来ていれば、それでいいと思っていた。
     ***
「そんなに、言ってた?」
「言ってた」
「そうだったかな?」
「でも、こうも言ってたわよ。『僕は、働いて、そうしたらきっと今みたいに、少し手を伸ばせばそこに好きなものがあるような生活ではなくなるから、限られた時間の中で、心の限り、強烈に、文学を渇望する、そうすれば、きっと、今以上に濃い、猛烈な経験になると思うんだ、好きということが、さらにさらに、切実なものになると思うんだ、』って」
「…」
「どうなの、今?」
「…。そうか、きっと、そうなんだろうな。確かに、そうなのかもしれないな」
「なら、それでいいんじゃない?」
「でも」
「でも?」
「でも、脳味噌がそう納得しても、この心が、イエスと言わない」