「!?」
「あなたの知らない人。あなたの知る必要のない人。私だって、彼を知らない。でも、もう決めたの。結婚する。それを、どうしてもあなたに言いたくて、それだから、東京まで来たの。有給なんて嘘。とうに仕事は辞めていた。私、結婚するの、だから、…」
「…」
「…、だから、あなたにはどうしても伝えたい事があって、ううん。私が結婚するという事じゃない。ほんとはそんなことじゃない」
「…」
「私はずっと待ってるということ。私は、ずっと待ってるから。あなたを。あなたの小説を。あなた自身の、あなたが苦しみの果てに掴むことのできる、最初の小説を、私、ずっと待ってるから。だから、」
「…」
「だから、必ず書いて。それが、それだけが、私の、あなたへの、ただ一つの事…」
     ***
氷が、ほとんど溶けた。私の為に、親切なバーテンダーが、いつも大きく丸く削ってくれる、大きな、透明の氷が。グラスの中央で、酒に浮かんで、小さくなっている。この、氷がほとんど溶けいった酒の味を、私は決して忘れまい。
     ***
「…そう」
「うん、そうなの」
「そっか」
「そう」
九時。いつもならそろそろ帰る時間だ。しかし、今日は店の人は、親切なバーテンダーさえも、誰も私達に話しかけてこない。私は、彼らの気遣いに感謝したい。
「そりゃ、そうか」
「…何が?」
「だって、そうだよ」
「そうなの?」
「うん、そう」
     ***
「どんな人?」
「?」
「その、結婚する人」
「あなた、知りたいの?」
「そりゃ、」
「そう、…やさしい人」
「素敵なんだ?」
「ええ、まぁ。でも、もういいでしょ?」
「…」
「お願い」
「…うん」
     ***
何を、言うべきなんだろう。ただ、はっきりしているのは、ここではもう彼女と飲むことはもう無いだろうということ。だから、今を大切にするということ。今日の酒の味を、店の空気を、彼女の横顔を、決して忘れないということ。
「変なこと言って、ごめんなさい」
「何が?」
「いや、その」
「全然」
「でも」
「ううん。…あの、もう一杯飲まない?」
「ここで?」
「うん、そう。ここで」
ここじゃないといけないのだ。
「…、付き合うわ」
二人で、モスコミュールを、同じものを頼んだ。今度は、あのバーテンダーじゃなく、女性の人が作ってくれた。この人も、いつも一人で来る私に、親切に話しかけてくれる人だ。
「乾杯」
カップが擦れあう金属音が、かすかに鳴った。
     ***
それから一緒に店を出た。階段の途中で、彼女の方に振り向こうと思ったが、やめた。