夕刻の帰り道、正門から駅までの下り坂を、相沢は考え事しながら歩いていた。
「さっき、自分に話しかけてきたひとは誰だろう?」
同じ学科で、顔だけは見知っていた。しかし、喋ったことはこれまで一度もなかった。どのゼミに属しているのかも知らなかった。
「きれいな声だった。でも、なぜ、わざわざ自分なんかに話しかけて来たのだろう?」
     ***
長い坂だ。夕方とはいえ未だ日は高く、木漏れ日が心地よかった。辺りには、他にも駅に向かう人が大勢いた。中には、相沢のように一人で歩く者もいた。歩くのが遅い相沢は、大勢に追い抜かれた。歩きながら、上を向いたり、下を向いたり、世界は面白くて、美しいものに満ち溢れており、そういったものを、一つ一つ丹念に眺めるのが、相沢は好きだった。そんな相沢を見て、数少ない友人たちは皆、「変わってる」と言った。
「相沢君」
後ろから声かけられ、相沢はびっくりして立ち止まった。さっきの、相沢に話しかけてきた髪の長い女が歩いていた。微かに笑ってた。
「いつも姿勢がいいから、すぐ分かる。多分知らないだろうけど、あなた、学科の有名人よ」
「いや、その…」
「そんなに怖がらないでよ。同じ学科なんだから。私の事、知ってた?」
「うん、まぁ」
「本当?あなた、いつも本読んでばかりいるから…」
「まぁ…」
堀辰雄だったわね?」
「うん」
「『風立ちぬ』?」
「いや…」
「じゃ、何?」
「…『菜穂子』」
「あぁ、『菜穂子』…」
その時には、二人並んで歩きだしていた。周りには、相変わらず他にもたくさん駅に向かって坂を下っていた。相沢の歩調だった為、大勢に追い抜かされた。その中には、同じ学科の人たちもいた。追い抜きざまにこちらをチラッと覗き見る者もいた。相沢は気になって仕方なかった。しかし女は、気にしていないようだった。