私にはこの街で行きたい場所があった。
かつて東京にきてすぐの頃、夫と二人で初めて行った、ある一軒のバーの、そのカウンターに二人並んでお酒を飲んだ。その事が私にはずっと忘れられない、幸福で、輝かしい思い出だった。
その時、夫にとってもそこは特別な場所だった。ずっと憧れの場所だった。だからその日一緒に行った夫は、珍しくはしゃいでいて、そんなことは、後にも先にもその一度切りだった。その時の私も本当に幸福だった。夫を見ずとも、夫と同じ方向に視線をやり、夫の考えていることに、ただ、身を添えることが出来ていた。それだけでよかった。
もう一度。私はもう一度彼と向き合いたい。彼を受け止めて生きていきたい。
今、どうしても、あの場所に行きたい。これ迄の人生で、彼と共に最も幸福な時間を過ごしたあの場所に、もう一度行きたい。そしてそれは、どうしても今じゃなくてはならない。それが、画廊を出た時の私の思いで、根拠の無い実感だった。
私はこの実感に全てを賭けよう。
全体としてはおぼろげな、それでいて細部は意外に明瞭だったりする記憶のみを頼りに、行きつ戻りつしながら店に向かうと、その途中では常に多くの人とすれ違う。少しづつ小止みになってゆく雨は、今では傘にあたる音をほとんど消し、その代りに、信号待ちの時に、ふと空を見上げた街灯りが、幻想的なまでに、その同じ雨によって揺らめいていた。本当にきれいな光だった。この光を、いつまでも忘れずにいようと思った。
その店はビルとビルの間の、細い路地に埋もれていた。看板の光が、ここでも雨によって一層美しさを増していた。その光を見て、心が震える思いだった。店名の表示されたドアは、重たくて、閉めるときに心地よい音をたてた。
夢見る気持で、私は、店の中にある階段を降りて行った。…