開店して間もなく、常連の男性客が一人、濡れた傘を手にやって来た。
近くを散歩した帰りとかで、ビールを小ビンで一本飲みながらたわいも無い会話をし、30分程で帰って行った。それからまた店内には静かな時間が流れだした。
「やっぱり雨だとだめね…」
「こういう日も良いさ。昨日なんて、ロボットみたいに忙しかったんだから」
「…まぁ、それもそうね」
「時間もまだ早いし、これからだと思うよ」
音楽の無い店内で、大場は、それ以上の会話をすることもなく、壁にもたれて佇んでいた。昨日ずっと忙しかった事を思うと、今はこうしてゆっくりとできることが何よりも有難かった。そういう意味で、大場は雨の日が好きだった。
暫くして、ちらほらと客が増えてきた。カウンターには男女の二人組が中央近くに席を占めている。月に一度位の割で見かける、大場も顔を見知っている二人連れだった。それと、女性の一人客が、カウンターの一番奥に座っていた。こちらは初めての客だった。アルコール度の低いカクテルをと言われたので、チャーリー・チャップリンを供したところだった。
何気なく大場は尋ねたてみた。「お味の方はどうですか?」
「とてもおいしいです…」にっこり笑った女の表情には、それでもどこか固さが感じられた。
「ありがとうございます。そんなに強くないお酒なので、飲み易いんじゃないでしょうか?」
「えぇ、ほんとうに。これ、何と言うんでしたっけ?」
チャーリー・チャップリンと言います」
「素敵な名前…」
もう一口、口をつけ、女はグラスを置いた。そして、両手で包み込むようにした。
「当店は初めてですか?」
「…いえ、二回目です」
「そうでしたか…それは失礼致しました。」
女は笑いながら、「でも、ずいぶん昔に一度来たきりで。ものすごく久しぶりです。前来た時も、ちょうどこの同じ席に座ったと覚えてます。確かあのときも、今と同じくらいに早い時間帯でした」
「えぇ、その席に座りたいと仰るお客様は結構多くいらっしゃって、大抵早い時間に埋まってしまうんですよ」
「そうなんですか。じゃあ私は運が良かった…」
「…」
その時、二人連れから注文があったので、女に一礼して大場はその場を離れた。
モスコミュールを二杯作ってから、そのままカウンター内の定位置に立っていた。と、バーの扉が閉まる音が聞こえた。漸く四人目の客が来た。
相沢だった。毎週同じ曜日の、同じ位の時刻になるとやって来て、いつも、カウンターの一番奥の同じ席に座った。しかし今日は、彼の席は既に埋まっていたので、大場はいたずらっぽく微笑んでみせた。
「今日は遅かったじゃない」相沢を、奥から6番目のカウンターの角の席に通しながらそう言った。
「ちょっと遊んでたんです」
「どこ行ってたの?」注文を聞かずにカティー・サークをダブルで相沢の前に置いた。
「上野公園を散歩して来ました。新宿にも寄っていつもの蕎麦食べて、それからここに来ました」
「また行ったんだ。好きだなぁ」
その店は大場が相沢に教えたのだった。