「いや、小説じゃないんです。村上春樹が、地下鉄サリン事件の被害者に対して行ったインタビュー集です」
「でも私は、これを読んで、事件についてとは別の部分でものすごく痛感して発見したことがあるんです。自分では大発見だと思ってます」
「何をですか?」
「それはつまり、さっきも言ったかもしれない、…『世界にはたくさんの人間がそれぞれの物語を背負って生きている』という事なんです」
サリン事件という輪に束ねられたたくさんの物語が、サリン事件という一つの…「事柄」によって、隣り合うんです。事件は、それぞれの人の背負うそれぞれの物語を成す、たくさん積み重ねられた層の中の一層で、そこに至るまでにもそれから先にも、それぞれの人にはそれぞれの固有の物語が続くんです…、だから、なんと言うか、あれは、まさしく『小説』だと思った。小説とはどんなものか、明らかにしていると思った…」
女は不思議そうな顔をして相沢が話を続けるのを待った。
新しくグラスに注がれた水を飲み、強く相沢は言い放った。「小説って、物語と物語が隣り合うことなんです。その隣あい方は、出会うでも良いし、何でもいいと思うんです。でも、とにかく大切なのは、世界で今も息づいているたくさんの物語があって、それが何かを契機として他の物語と接して、…その様を描くことが、『小説』なんじゃなかろうかと、強く、生まれて初めてそんな事を思ったんです」
     ***
相沢は見るからに興奮しているようだった。
大場は女の方を気にしたが、女はニコニコとしていた。そして、不意に言った。「お水を半分ほど頂けますか?」
「あ、これはすみませんでした。すぐお持ちします」
グラスに水と氷を入れ、女の前にトンと置いた。
「この人よく喋るでしょう?」相沢を見ると、嬉しさではち切れんばかりの表情だった。
「すみません、つい、興奮して…」
「いえ、全然。むしろ、すごいなぁと思って。皮肉言ってるんじゃなくて、純粋に感心して」
グラスに注がれた水を一息に飲み干して、女は不意に言った。
「…じゃあ、私、そろそろ帰らないと」
大場は壁にかかった時計を見た。
「あ、もうこんな時間だ。今日は本当に、どうもありがとうございました」
「こちらこそ、ご馳走様でした。すごく楽しくて、それに、お酒美味しかったです。」
大場は微笑し、離れたところに立っているもう一人の店員に会計を伝えた。
「この人、毎週来てるから、また変な話聞きたいと思ったら、ぜひいらして下さいね」相沢を指してこう言ったら、相沢は恥ずかしそうに顔を赤くした。
「えぇ、ぜひまた…」
その時、もう一人の店員が、会計にやって来た。
ありがとうございましたと言って値段の書いた紙を渡しながら、「どうも済みませんでした。ゆっくりお酒召し上がれなかったでしょう?この人が喋りすぎるもんだから…」
「そんなこと無いですって。すごく、楽しかったです。またお邪魔したいと思いました」
「えぇ、ぜひお待ちしております」
会計を済ませ、女はコートを着た。相沢は女を見守っていた。
「それじゃ、また…」女は相沢に言って、席を後にした。
二人の従業員がカウンターの中から「ありがとうございました」と言って、見送った。