姨捨
私にとって、今回万三郎師の姨捨を観ることは、亡き片山幽雪師の姨捨の記憶を、自分はどのように受け止めていて、そして今日の舞台を経て、これからどう生きていくことができるのかという一点のみから臨んだ舞台だった。
だから幽雪師の時と同じく、梅若実師が地頭であるということも重要だった。
今、一週間が経とうとしているが、言葉にすることが非常に難しい。それと同時に、細部の記憶は、薄れていく。この記憶を言語にできないうちに、記憶がなくなろうとしている。
印象的な姿をいくつか。
ワキの殿田謙吉師の、素朴な、色を排した姿。
前シテの立ち姿、私には、少し「く」の字に傾いているように見える姿が、その屈折によって、心の底深くに、何か思い、を抱いている女の姿をより強く印象付ける立ち姿だった。
シテの、ただ、そこに存在すること、シテを演じること、生きていること、生きることとは、衰えや、時間の積み重ねの中で、生きなくてはならないこと、そのまさにそのありさまを、能という形で、舞台上にありありと眼前させること
私は、今回の姨捨を観ながら、「能とは何か」「能を観るとは何か」ということを、考えていた。いつのまにか。
姨捨を観ながら、そこに梅若万三郎師による姨捨が存在しながら、それを眼前にしながら、まさに、しかとこの眼で受け止めながら、しかし私は、なんだか言葉にならない、「生きる」ことについて、考え続ける時間を過ごしていた。
やはり言葉にならない
でも、記憶が薄れるくらいなら、今、形を成さない言葉をここに記しておく。