六畳間のピアノマンについて

修士論文を提出したら、心に余裕ができたのか、テレビドラマなんかを観て過ごす時間が増えた。毎週の楽しみは、金曜日の「俺の家の話」と土曜日の「六畳間のピアノマン」だ。今日は、「六畳間のピアノマン」について思うところを書いてみる。 

物語は、死者を中心に回っている。

夏野という死者は、他の登場人物たちから思い出されている。いや、だけど、初回と第2回では、元同僚や父親などによって思い出されていたが、しかし第3回では、上河内からは思い出されていない。むしろ記憶は失われている。このことをどう考えようか。

死者と関係するあり方は、思い出すという関係も、忘れるという関係も、どちらもありだろう。人は、死者のことを、ずっと思っていたいと願うこともあれば、早く忘れたいと願うこともあるだろう。では、上河内は、夏野のことを忘れたいと願ったから、記憶が失われたのだろうか。上河内の記憶が失われたことは、夏野との関係が終わったということを意味するのだろうか。

ここで考えてみたいのは、元同僚と父親についてだ。先に、私は、元同僚と父親は、夏野のことを思い出していたと書いたが、たぶんこの見方は充分ではない。おそらく、思い出すという関係のあり方とは別の関係のあり方が始まったのだ。思い出すという関係のあり方だけではなく、同じ時間を共に生きるような関係のあり方に踏み出したのだ。だから、元同僚は、夏野でありながらピアノマンである男の動画に、今、元気づけられている。父親も、息子の友人たちから教えられた、息子でありながらピアノマンである男の動画に、今、元気づけられ、それが、死者となった息子と、今、ビールを酌み交わせることにつながる。

上河内にとってもそうだ。上河内にとっては、ピアノマンが夏野であることには、少なくとも表面上は、意味はないだろう。しかし上河内にとっては、溝口が語る男(夏野)のエピソードには意味があった。この話にジーンときて、そして今、その溝口に見せられたピアノマンの動画から元気をもらった。上河内には、記憶を取り戻して死んだ夏野との関係を取り戻す(思い出す)というあり方は、最終的には目指されなかった。でも、記憶喪失になったことが、彼と夏野との関係が終わったとうことにもならなかった。むしろ、ピアノマンとなった夏野との関係のあり方が、ここから初めて新たに始まったというべきなんだろう。上河内の記憶が失われたことは、そのことを引き立たしている。

このことは、夏野という死者にとっては、人によっては思い出の中に存在する夏野でありながら、同時にこれからは、今まさに存在しているピアノマンとしてのあり方を、あらたに始めたということなのだろう。

死者は、どのようにして生者と関係を持てるのだろうか。生者は、どのようにして死者と関係を持てるのだろうか。六畳間のピアノマンが死者であることには意味がある。この死者の死は、彼と関係を持つそれぞれの人物にとっては、重要である。インターネットが、距離を無化するものとしてではなく、時間を封じ込めるものとしてこのドラマでは描かれ、そしてそれが、死者と生者との関係のあり方である。

まとまらないが、ドラマを観てこんなことを考えていた。