俺の家の話

「俺の家の話」最終話を観ているあいだ、ずっと、いつ「・・・というのは想像の話で」と寿一のナレーションが入るかと待っていたら、最後まで、寿一は死んだままで終わった。そうかと思った。最初、私は、この話は、「東京物語」で母の死に間に合わなかった子たちとは異なり、家族が父の死に間に合い向き合っていく物語になるだろうと予想していた。しかし、そんな安易な予想に収まらない筋書きが展開した。

能において、この世に対する未練や執着を抱く死者のシテが、ある、生前ゆかりの場所を訪れた者の前で、亡霊の姿となって現れ、カタる。そのシテのカタりに対する者は、ワキと言い、僧や山伏など、死者の声に耳を傾けることができる者だ。場合によっては、生前の死者と縁のあった者である場合もある。あるいは、此岸と彼岸の橋渡しができる者とも言えるだろう。このシテとワキの交流が、能の筋書きの中心だ。

考えてみると、「俺の家の話」で、寿一のナレーションは、もしかしたら、死者としての寿一のカタりだったと言えるかもしれない。確か、その寿一のナレーションで、寿一も寿三郎も、寿一の死を受け入れられずにいると述べられていた。

寿一という死者が主人公であり、そしてもう一人、寿三郎も主人公であった。では彼らは、救われたのか。寿一は救われたと思いたい。隅田川が演じられる舞台で、寿一と寿三郎の対話があった。寿一は、寿三郎から褒められる言葉を初めて聞いたことによって救われた。寿三郎との、この対話があったことで、この時初めて寿一は、自らの死を受け入れることができたのだろう。

しかし寿三郎は。能「隅田川」は、狂女物と呼ばれる。あまりに強く思いつめたが故に、狂っているように周囲から扱われるシテは、しかしかえって狂うことによって、常人とは異なる世界を生きることができる。狂人である寿三郎は、寿一の亡霊と対話することができた。しかし、それは彼にとって救いにつながっただろうか。隅田川のシテは、亡き子の声を聞いた。姿も見えたかに思った。しかし、抱擁することができなかった。彼女の東国への旅の目的は、別れた子を見つけることだった。しかし、子の前にたどり着いた彼女を待っていたのは、子はすでに死んだという現実だった。この現実を突きつけられる場面で、深い悲しみにおいて能は終わった。

寿三郎にとって、「寿一が死んだ」という現実を受け入れるということは、彼にとっての、救いだったのだろうか。

現実を受け入れるというだけでは救いにはならないだろうと、私は思う。

亡者にとっては、救いは、即、成仏につながる。現世はそこで終わる。しかし生きる我々にとっては、受け入れがたい現実を受け入れたとしても、そこで現実は終わらない。なお続く現実があり、その現実を我々は生き続けなければならない。

寿三郎は、自らの渾身の謡いを、亡き寿一に聴かせることができた。しかし、寿三郎は寿一の死を受け入れることができたのか、受け入れてなお生き続けることができたのか、ドラマでは、はっきりとは描かれていなかったように思う。

物語は最初、家族の一人が死にゆくことを、他の家族が受け入れていく準備期間の物語として始まった。皆、それぞれの思い出の中に、死にゆく者の死を受け入れる準備をしていくかに見えた。そしてまた、死にゆく者自身も、自身が死に向かっている現実を受け入れようと苦闘している姿として描かれていた。しかし、誰しもが予測していなかった、唐突に生まれた死者の不在については、残された生者が受け入れていく姿をはっきりとは描いていない。

家族の食事で、スマートフォンの中で「いただきます」とかつて生きていた寿一が言ったシーンがあった。家族の誰もが、現に生きている踊介の「いただきます」では満足できなかった。あの場面は、ある意味、寿一の死の直後にあっては狂人の寿三郎だけが見ていた寿一の亡霊を、それとは別の形で、スマートフォンを借りて立ち現れる寿一の幻影の姿を皆が目撃することを通して、家族の皆が狂っている姿を示していたと言えるのかもしれない。

ただ、長州力の姿があった。さんたまプロレスで、寿一を弔う中で、長州力もまた寿一の姿を見ることができた。この場面は、隅田川における、南無阿弥陀仏の読経のシーンだろう。ここで、隅田川にあっては、母と子の亡霊は、抱擁することができなかったのが、しかし、さんたまプロレスでのこのシーンにあっては、長州力は、寿一のラリアットを、確かに受けることができた。

思えば、寿一には2人の「父親」がいた。一人は、寿三郎だ。寿三郎には、寿三郎なりの寿一との別れ方があった。そしてもう一人の「父親」、それは、プロレス界における長州力だ。彼にもまた、彼なりの、「子」であるコトブキとの別れ方があった。寿三郎は、松前漬けを寿一に食べさせてしまったことで、寿一を死なせてしまったという自責の念があった。同じように、長州力にもまた、コトブキをリングに上がらせてしまったことで死に至らせてしまったという自責の念があっただろう。その彼にとっての救いが、あのラリアットを受けて倒れる姿だったのだろう。彼もまた、コトブキとの突然の別れにあって、救いを求める一人だったのだろう。

こう考えると、あの長州力が受けた寿一のラリアットは、最後の最後で、残された生者もまた、幻影であったのかもしれないが、それでもやはり、再会できたというある確かな実感を持てることによって、救われ得るのだということを示唆するものだったのかもしれない。

 予約しておいたシナリオが4月に届いたら、もう一度最初から丁寧に読んでみたい。