4月11日(日)

寺尾紗穂さんの、「道行」は、「ひとり憂いを抱きしめて」という言葉からはじまる。今、聴きながら書いている。

今日、夕方、ごみ袋が切れていたので、コンビニエンスストアまで買いに歩いて、そのついでに、ぶらぶら散歩することにした。小さいまちなかを抜けて、川と、踏切を越えて、公園の湖岸に出たら、ちょうど、夕暮れ時にあたった。風はなく、波は静かで、春の、あたたかさが満ちていた。ほかにも、会話している人や、水面に向かって石を投げている人や、釣りをしている人や、走っている人がいた。

冬の間にたくさんいた鴨は、もう一羽もいなかった。

眩しかったが、しばらく、座って夕日を眺めていた。

3月末に37歳になった。

考えなければいけないことが、たくさんあった。

大学院を修了したのと、年度の変わり目で仕事が忙しかったのとが同時に来たから、向き合わずともすんでいたが、今日、仕事に行く予定だったのが、急に行かなくてもよくなって、予期せずぽっかりと空いた時間の隙間をついて、「それ」は、すっと入ってきた。以来ずっと「それ」は、心の中の「何か」を、むさぼり食うのをやめてくれない。

おい、私の一部なんだぞ。大切な、これまで守ってきたものなんだぞ、それを、急に入ってきて、食べるんじゃない、と、そう言っても、「それ」は全く言うことを聞いてくれず、ずっと、もぐもぐ、食い続けている。

対岸の、山並みの向こうに沈みつつある夕日を眺めながら、胸のあたりが、キリキリして仕方なかった。

端的に言って寂しかった。

そう、寂しかったのだ。

「何か」とは。

これまで寂しさを閉じ込めていた蓋だった。私は、蓋を大事にしていた。蓋をかぶせ、隠したものに向き合うのが怖かったから。隠したものは寂しさだった。

では、「それ」は。私の中に入ってき、私の中の大切な蓋を貪り食う「それ」は、何か。

想う人に会いたいという気持ちか。忙しさにとりまぎれて向き合って来なかったが、私は、失った人のことを、今もまだ想っていた。