4月25日(日) 晴れ

東京から帰って以来、この10年の間に、多くの近しい人を喪くしてきた。なかでも、同居していた祖母は、私との間柄からいって、喪失感もことに大きいものがあった。

しかしそれでも、先日、祖母の百箇日を終え、ようやく、この間に経験したすべての死が、少し語弊がある言い方かもしれないが、私の心の内の、同じ一角の納まるべき場所の中で、それぞれの居場所を対等に見出すことができるようになったのではないかと思う。その意味で、この数日の間に、一人の特別な存在だった祖母を思い返す時間を、行きつ戻りつも持ち得たことは、私にとり大切な「儀式」だったと言えるのかもしれない。

 

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唐突だが。

このようなとき、もし東京に住んでいたならば、きっと、大好きなバーの、カウンター奥の席で、静かに座っていただろうなと思う。

杉浦日向子さんが、彼女の大好きな一軒のソバ屋を語るなかで、

 腹を満たすのではない。時を満たすのだ。

と述べられていた。

彼女のこの言葉は、私の大切な宝物だ。そして私にとっては、一人、バーで過ごす時間こそが、時を満たすことのできる過程であった。

いま、新型コロナウィルスの感染拡大防止が声高に叫ばれる中にあって、私が住む小さな町ですらも、酒場には近寄りがたい空気が漂っている。ましてや銀座のバーになぞ、どうして行けようか。

しかしあの街のバーでなければ、ダメな時間というものがあった。新幹線に乗ってでも、ただあの場所で時間を過ごすためだけに、行きたい。

 

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祖母の死を思い返していたら、バーのことを思い出した。大切なことを考えようとしたときに、久しぶりに、バーに行きたいなと思った。

 

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いま、いつものように、両親が2階で寝静まった家の、1階の食卓で、PCを開き、これを書いている。

もうそろそろ、新しいことを書かなきゃなと思う。

いつまでも祖母のことを追憶の中から引っ張り出して、もの思いにふけっていたい。でも、ここ数日、家族にも言わず、秘かにこの場所で、祖母のことを書きながら、自分なりに集中した密度の濃い時間を持てたことで、祖母に、きちんと、さよならを言えたような気がする。

 

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ちょうど1ヶ月前の今日、37歳になった。その日、これから人生の後半が始まると、勝手に大真面目に考えたことを、今、思い出した。

 

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いつまでもクヨクヨするな、自分!

ときは2021年4月25日。昨日、自動車で走っていたら、新緑の山並みがとてもきれいだった。酒飲む場所にしばらく行けなくても、素晴らしい場所はたくさんあるぞ!

私たちが住む世界は、美しく、そして素晴らしい!