4月29日(木)雨

母のスマートフォンには、甥や姪が生まれたときからの写真が撮りためてある。何枚もの写真を順にスワイプして、赤ちゃんや子どもの写真ばかりを眺めていたら、ふいに、最晩年の祖母の写真が表示された。介護ベッドの上で、祖母が横になっているのを、父が撮って、母に送信した写真だった。

思いがけないことに、母も私も、いっとき、時が止まったようになった。この頃は祖母の元気な頃の遺影ばかりに見慣れていたので、ほんの少し前の過去とはいえ、現実のものとしての老い姿を、唐突に直視するには、そのときはあまりに無防備で、すぐには言葉がでなかった。

しばらくして母が、こんなときの写真は残しておくもんじゃないね、と言った。

私は精一杯、でもここには嘘がない、と言った。

そしたら母は、あんたはホントにいいこと言うねえ、と言ってくれた。

 

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祖母の葬儀を終えた数日後、シンビジウムが送られてきた。あまりにゴージャスな花の姿に、送ってきた人はお祭りと勘違いしているのかと、不愉快な気持ちにすらなった。花は座敷の縁に置かれた。しばらくは目障りにこそなれ、とても、心落ち着けて眺める気になれなかった。

それから百箇日を終えた頃、夜、湯あがりの体を冷ますのに、座敷に置かれたイスに座って、ぼーっとする時間を持つようになった。

そうして過ごしていた数日前の夜、ふと、眺めていた遺影から視線を縁に移すと、あのシンビジウムがあった。母が水遣りに気をつけているので、萎れるということはないが、あれだけゴージャスだった花の、いくつかは床に落ち、いくつかは色が落ち、すっくと立っていた茎にも、曲がっているものがあった。

花も老いるんだと思った。人間と一緒だと思った。

それからは毎晩、この花の老いていくさまを心にかけて観ることが、大切な時間になった。

 

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今日、車で20分程度のところにある温泉に行った。行く道中、母の父が生まれた地域の、産土神を祀る神社に立ち寄った。この場所には、数年前の祖父の他界後、なんとなく行きづらくなっていた。それがなぜか今日、久しぶりに行こうという気になれた。

鳥居の脇に車を停め、新緑の緑に覆われた、それ以外には何も飾り気のない参道を歩くのは爽快な気分だった。降る雨すらも心地よかった。苔むした拝殿の屋根、ケヤキの大木、木の幹もコケに覆われていた。

私は、本当に祖母や祖父のことが好きだったんだなあ。みんな死んでしまったことが、いまでも嘘みたいだ。

でもこの人たちのためにも、しっかり、今度は自分の人生を生きていこうと思った。今日お参りして、あらためてそんな気持ちになれた。