「正しさ」について
父について、なぜ父と私は相容れないと思ってしまうのか、書いていたら、「正しさ」に行き着いた。
正確には、行き着いたというよりも、「価値観」とか「反発」とかいった、目に付く言葉たちを、こそぎ落としてみたら、「正しさ」というものが残った。ほかにも書いていない父との情景はあるが、一旦、「正しさ」について考えたい。
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「しんどい」と感じていたのは、「正しさ」 に対してだったのではないか。「嫌い」という名をかぶせていた感情は、「正しさ」を押し付けられそうなときに、私の感情に生じた起伏のことではなかったか。
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ささいなことだけれど、昔、こんなことがあった。
以前働いていた職場を12月に退職して、今働いている職場が4月から始まるまで3ヶ月、空いた時間があった。この時間に、ずっとやりたいと思っていた、バックパック背負っての旅に出た。しかしこのとき同時に、今働いている職場から、もし時間があるのなら、この3ヶ月の間に、アルバイトみたいな格好ででも来てくれないかという話もあった。私はその話を断った。しかし旅に出るのに、父と衝突した。
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このとき、父とは相容れないと感じた。しかしこのとき、私と父が相容れなかったというのではなく、私と、父の「正しさ」が相容れなかったということなのではないか。父には、一定の年齢の人間は、機会がある限りは「働かなければならない」という「正しさ」があった。一方、私は、せっかくできた時間なのだからずっとしたかった旅に出たいと思った。しかしこの考えは、父の「正しさ」と相容れなかった。むしろ、父には「正しくない」とうつった。
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おそらく、こういうことなのだと思う。そう考えたら、なんだかホッとする。
私は、私の父という人を「嫌い」と思いたくない。
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「正しさ」とは別に、「好み」という言葉がある。「おふくろの味」という言葉がある。「好み」とは、親が子と一緒に暮らし、同じことやものを「分かちあう」過程で、子に育まれていくものなのだと思う。
親が甘いものが好きで、しかし子は甘いものが苦手ということはあると思う。でも、甘いものだけが「正しい」のではないと思う。メニューを開いて、子が辛いもの好きなら、子は辛いものを選べばいい。しかしきっと、いつもの味付けは、親と通ずる味付けになる。
しかしそれでももし、子の感性が、自分の「好み」とズレていくなと感じたとしても、その根には、自分と子との共有した時間があったことを、信じて、見守ってほしい。親だけが、自分と共有した感性が、この子の根にはあることを、信じることができるのではないか。
この子を育てたと、親が胸を張れるのならば。
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そして、「痛み」の感覚。何かを痛む感性。
「このことは正しくない」のではない。「このことに痛みを感ずる」のである。
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「正しさ」を、どうかかぶせないでほしい。振りかざされた「正しさ」は、しんどい。そんなものではなく、「好む」感性、そして、「痛む」感性。
「正しくないことをしてはならない」のではなく「痛みを感ずることをしてはならない」のではないか。そして「痛みを感ずること」は「してはならない」のではなく、そもそも「できない」。そうであるならば、正しさについて教えるのではなく「痛みを感ずる」感性を、育むことが大切なのではないか。そしてこれも、教科書を読んで一晩で覚えるものではなく、時間を共有することで、育まれ、伝わるものではないか。
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なんだかまとまらないが。
もちろん「正しさ」を全部、否定するものではないけれど。