一昨日の夜、遅くまでうちにいた小学生の甥を、隣の兄の家に送りがてら見上げた空に、月影が明るく照っていた。その周りを雲が速く流れていた。甥は、月が速く動いていると言った。私は、動いてるのは雲だよと言った。そうして二人で、しばらく空を眺めていると、小さな動く光が3つ、飛行機だった。

そんなことを思いながら、今日も先ほど、なんとなく外に出て空を見上げたら、一昨日よりも丸みがでた月が、今夜は雲に遮られることもなく、輝いていた。

10年以上も昔、久しぶりに会った人から、どこかであなたも、同じ月を見ているのかなと思っていたと、言われたことがある。そんなことを今でも覚えているのは、嬉しかったからだろう。

でも当時は、それから特にどうということもなかった。たまたまバーで隣になり、話をした人で、それから何ヶ月後かに、同じ場所でまた会ったときのことだ。今度は、前回よりも話に花が咲いた。このとき、そんな偶然に会った人と、大切な話をしたことを覚えている。夜の銀座を、新橋駅まで並んで歩き、その人は地下鉄駅への階段を降り、私はJRの改札を抜けた。それ以来、その人とは会っていない。私は遠く離れた町に住むようになった。

夜空に照る月を眺めるときには、いつも、その人のことを、その人がくれた言葉とともに思い出す。

 

***

 

いくつかの思い出とともに私は生きている。そのような思い出は、誰かと会うあいだは胸の奥にしまわれているが、一人でいる静かな夜には、ふと、顔をのぞかせてくる。そのような思い出たちを、そんな時、私は嫌な気もせず、ごく自然に受け入れる。

私は多くの人を傷つけてきたけれど、それでも、誰も裏切ったことはなかったから。

 

***

 

見合いをした人と、この日曜日、車で出かけた。県境の山の上にある蕎麦屋で昼食をとったら、山の向こう側へ、さらに先にある海沿いの道を、車で走った。私は、そんなにおしゃべりでもないし、気の利いたことも言えない。ただ、好きな食べ物の話とか、仕事の話とかを、したり聞いたりしていた。あとは、持ってきたCDの音楽を、なんとなく解説しながら、聴いているだけだった。

海沿いに、ポツンとあった喫茶店に車をとめた。そこで頼んだコーヒーは意外にも美味しかった。このことに勇気を得て、他の客がみな静かな店内で、こんな私と一緒にいて、良い時間になっているのだろうかと、素直に聞いてみた。

こたえは、そんなこと気にしなくても良いという内容だった。

何度か会ううちに、サバサバとあっさりした感じのその人に、むしろ居心地の良さを感じていたのは私の方だったかもしれない。

そこから帰る道中は、往路より話が弾んだように思う。次に会う約束をして、その日は明るいうちに別れた。

 

***

 

昔みたいに、相手と自分の心を通わすような交際を、今でもできるのだろうか。否、その頃も、ほんとうには心を通わすことなどできていなかった、だろう。

まるで絵を眺めるような接し方だった。

だからだろう、じきにみな私から去っていった。私に対しさらけ出してくれた人もいた。でも私にはそのような人でも、それが親身な接し方であればあるほど、かえって受けとめることなぞできなかった。そして私はそのような自分に対し何の不満も感じなかった、だろう。

そのときの心境を、今となっては正確には思い出せない。

でもなぜか、私から去っていった人、いや、私が、その人が去るように仕向けてしまった人、そのような人たちのことを、思い出すときが、今でもある。

当時は壁にかかった絵だったのかもしれない。しかしそのような人ひとりひとりが、いまは、むしろ、いまだからこそ、本当に大きい存在だったと、ようやく、すなおに理解することができる。

しかし、歳月とともにすべては流れ、あとには何も残せなかった。過ぎ去っていくのを、そのときにはまるで他人事のように傍観しているだけだった。

 

***

 

このような思い出とともに私は生きている。

このような思い出があるから、生きていける。

そして私は、そんな生き方でも良いと思っている。