定年まで数年を残し退職した元上司から久しぶりに誘われ、休日の今日、喫茶店で会ってきた。

退職する1・2年前に、癌の手術で胃を広範に切除し、急激に痩せたその体つきにとても驚いたのだったが、久しぶりの今日は、痩せた体型はそのままでも、すっかり元気そうであった。その後は、転移も再発もなく、昨年で一通りの治療はすべて終わったよと、淡々と話していた。

最近何しているのかと聞けば、1ヶ月に一回くらいの頻度で四国遍路に行っており、今日私を誘ったのは、次の回から、お前も一緒に来ないかとの誘いの相談だった。ほかにも二人の同行者がいて、両人とも、ここ何年かで退職した、同じ職場で働いていた人だった。一人は私も知り合いの人で、もう一人は顔を認識している程度の人であった。

仲の良い3人の邪魔にならないのであれば是非、と返事した。自分もここら辺で人生見つめ直して・・・と言いかけたら、元上司は笑ってさえぎった。

「理由なんていい、意義や目的なんか後から何とでもついてくる。そんなんじゃなくて、道中のたわいもない会話やお参りのふとしたときに、何となく、大切なことに気付くようなものじゃないかな。そういうのって、受け身であることがいいんだと思う。」

すっかり私の悪いクセを見透かされているような気がして、思わず腕組み、そーだそーだと思った。

以前にも同じようなことがあった。人と映画を観たにいった帰りに、運転する車の中で、その映画の何がよかったのかを熱弁していたら、「楽しいってだけじゃダメですか」と、寂しそうに言われたことがある。そして、その人を家に送ったあと、ひとり車を運転しながら、なんだかものすごく大事なことを指摘されたように思ったのだった。

とかく、意味や理由を問うてしまうのだった。生きていることに。生きている、この一つ一つの時間に。

意味や理由を問うたって、答えにたどり着けるのか。かえって不自然な決めつけをしてしまわないか。それよりも、何か達成すべき目的に捧げられた手段としてではない、純粋ないまを、生きたい。

そしてそれは、人と会うことについても、何かの達成のためではなく、その人に会える時間そのものが、喜びであるような、そんな、「時を満たす」ことであってほしい。

私は何を言っているのか。

お見合いのあと、週末ごとに、会うようになった。その時間は、目的に捧げられた時間であるべきなのだろうか。人と会う、その、ときそのものが、それだけで満ちているような、そんな人との接し方を、しばらく忘れてしまっていた。

そんなことにも気づかされたのだった。

とにかく、7月の連休に、お遍路にいくことに決まった。目的、意義、理由、そんなものは置いていこう。先行するイメージすらも取っ払って、とりあえず、体験してこよう。