井伊文子さんが書き置かれたものと、私がはじめて出会った時、もはやすでに、彼女は亡くなられていた。

それでも、若い日から晩年にかけて文子さんが残した文章を読むにつれ、そこから偲ばれる人柄に対する、こいごころにも似た憧憬を、私は強く持つのであった。また、古書店から購入した彼女の著作のうち数冊には、見返しに、おそらくその本の以前の持ち主にあてた、文子さんの自筆による短歌が添えられていた。その筆跡からもまた、きっと優しい人であったに違いない彼女の面影に、触れることのできる思いであった。

私の住む小さな街から、自動車で三、四十分ほどのところに、湖岸の道路に面して藪とフェンスに囲われた鬱蒼とした一角があった。子どもごころになんだか気味わるく、まだ小さかった私は、母に、ここは何と訪ねた。すると母は、井伊さんのお屋敷、と教えてくれた。

それから長じて歴史や古いものを好むようになると、自然と、そこがかつて彦根藩のお浜御殿と呼ばれた場所で、文子さんの生前のご自宅と知るようになった。

最近まで、必要があり週に何度かこの場所を自動車で通り過ぎた。そのうち、春と秋に庭園が一般公開されているのを知り、毎年、時期になると訪ねるのを楽しみにした。文子さんご自身が化物屋敷と書かれたその御殿は、たしかに荒れていた。建物のところどころが痛み、庭も、手入れらしい手入れがなされていなかった。京都での学生の頃から、ガイドブックに載っているような寺社には比較的多く訪ねてきた自分にも、確かにこのような由緒ある場所ではあまりない風情だと思った。

しかしながら、この、自然に還りつつある庭のありさまを通じて、そこに立てば、文子さんのかつてこの場所で暮らしておられた、残影に出会えるようにも思うのだった。このことが嬉しかった。現在この場所を管理している彦根市が作成したパンフレットには、文子さんに関連した記述はない。だからこのことは私のひそやかな楽しみである。私にとりこの場所は、想像を馳せることで、文子さんの心に触れられる大切な場所となった。

そうしてつい先日、偶然にも、一幅の掛軸を所持することになった。文子さんの、美しく優しい筆跡で、井伊直弼の詠んだ、 

「春あさみ野中の清水氷いて底の心を汲む人ぞなき」

が書かれ、その下に、井伊家に伝来したのだろう印章が三個三段で、計九つ、整然と押されていた。中でもひときわ大きな「大老之章」印が上段中央に配され、その上方に先ほどの和歌がある。この構成に、直弼を慕う文子さんの心のありようを汲みとれるように思うのだった。

 

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これは、私の「あこがれ」であろう。でも忘れたくないなと思った。このような感情は、心のうちで、「おもいで」の隣の場所にある。これから自分がどうなっていくにせよ、どのような暮らしを営んでいくにせよ、どんなに拙くとも、この自分にとって自然なこれらの気持ちを、決して置き捨てていくことはできないなと思った。

これらの感情が、むしろ共に、背景で見守ってくれるのだと思う。