いつもより遅くなった駅からの帰り道、空気に、もはや水分が含まれていないのを感じた。いよいよ梅雨明けだと思った。夜風が心地よかった。

 

今日は電車で、職場のある駅を過ぎた向こうにある、遠くの都会まで行った。いつもより長い時間を電車に乗っていると、気付けば、学生や、社会人や、普段の職場の小さな世界では会うことのない様々な他者たちとたくさん、同じ車両にいあわせていた。

そういえば昔、ここよりもずっと大きな街で働いていたときに、そのときには電車通勤で、同じ電車に乗る、色々な人々のたたずまいや、格好に、綺麗だなあとか、かっこいいなあとか思ったりして、自分も、そのような都会人の一人でいるのかなと、変に気負うところもあり、そう感じるのは疲れることであったが、でもしかし、その気負いも案外と自分をシャンとさせるのには、良いものでもあった。

今日は高校生や大学生を多く見かけた。彼ら彼女たちがぼんやりと視界に入ってくるのに合わせて、自分の中に、彼ら彼女たちと同じくらいの年齢の自分は、今も生きているのかと問うてみた。

自分が出した答えは意外にも、「生きている」というものだった。

自分の中に、かつての幼かった自分や、少しだけ大きくなった自分、反抗していた自分、社会に出た頃の緊張した面持ちの自分、仕事で失敗してへこたれている自分、そのような自分たちが、いるのだ。

今の自分はあの頃の自分から、断絶することなく続いた延長にいる。しかし一方で、同時に、あの頃の自分たちが、それぞれ、自分の中に別の輪郭を持って、「生きている」。

不思議な感懐に浸った。そのような自分たちが、自分の知らないところで、今の自分を見守っていた。そのように思ったし、実際にそうなのだろう。

過去の何人もの自分が見守ってくれていることに気づけたのは、今日、良かった。