通勤の電車で高校生と乗り合わす。私にも、彼らのようなときがあったなあと思う。彼らぐらいのとき、私は、自分の「今」が嫌でたまらなかった。自分の醜さと格闘しているようであった。それは痛みでもあった。重圧でもあった。どこかに捨て去ることができたなら楽になれた。しかしそんなことはできなかった。若さの衣をかぶった醜さと、共に生きるしかなかった。ただ早くこの若さを脱したかった。つまり大人になりたかった。自分の精神と肉体を、当時の私は持て余していた。

そんな記憶がくっきりある。しかしそうであるにもかかわらず、高校生である彼らが、今の私にはまぶしくうつる。

たぶん、誰にとっても、どんなときでも、「今」の自分というものは、あるズレを含んだ存在なのだろう。高校生の頃は、それを、暴発しそうなエネルギーが自分の醜さの中に渦巻いているのを、持て余しているようにしか感じられなかった。

しかし今、私の中にはエネルギーが存在しても、それが澱のように底に溜まっていると感ぜられる。

老い方には、人それぞれのものがあるように思う。才能や、エネルギーを、吐く息にうまく乗せて放出できるような老い方。またはそれとは異なり、自分の中にあるものを、自分の底に沈ませてしまうような老い方。枯れるような老い方。もしくは、臭気を発しながら腐らせてしまうような老い方。

自分の中にあるエネルギーを、どうにかしないと。これは、かつての高校生であった自分に答えることでもある。

高校生の頃に戻りたいとは思わない。ただ、高校生の頃になりたかった大人に自分はなれているのかと思う。そうなれる努力をしなければと、今電車で乗り合わせる高校生は、私に思わせてくれる。これが彼らを眺める時に感じるまぶしさの正体で、「後悔」ではない。

「後悔」という言葉は、今はまだ使わなくてよい。