記憶③

小学5年か6年の国語の教科書に、『大草原の小さな家』のちょっとした感想文が載っていた。幌馬車の絵が挿絵に描かれていた。授業で取り上げられることはなかったが、小学校の図書館から、『大きな森の小さな家』を借りて読んだ。その福音館書店版の、表紙に惹かれた。

「大きな森」に続く『大草原の小さな家』以降の巻は、小学校の図書館にはなかったので、買ってもらって読んだ。講談社青い鳥文庫版だった。『プラム川の土手で』『シルバー湖のほとりで』『大草原の小さな町』『この輝かしい日々』『農場の少年』。どんどん、のめり込んでいった。

『長い冬』は、講談社版になかったので、岩波少年文庫版を買ってもらった。講談社版で「とうさん」「かあさん」だったのが、ここでは「とうちゃん」「かあちゃん」といった。この翻訳の違いが違和感となり、しばらく読めなかった。

『はじめの四年間』『わが家への道』『ローラ・愛の物語』『小さな家の料理の本』。小学生当時に出ていた、「小さな家」に関連する本は、手に入れられる限り、近所の書店で取り寄せてもらった。

「小さな家」の世界に、私はすっかり魅了された。ミズーリ州マンスフィールドに残るローラ最後の家に、いつか行ける日を夢見た。物語に描かれる世界と自分がいる場所は、少年の私にとって地続きだった。

あの物語の、何に、そこまで惹かれていたのか、少年の私にそう問うていたら、なんと答えただろうか。

今ならばこう答える。

あそこに描かれていたのは、主人公ローラの目から見た世界だった。物語を読むことは、物語の世界を生きることであった。少年の私は、ローラの目を通して、一人の少女が一人の大人の女性へと成長していく人生を、生きた。

100年前のアメリカに生きるローラの、まるで私が彼女の中に存在して、彼女と一緒に、彼女の人生を経験しているような、そのような物語への触れ方ができたのだった。

物語との最も幸福な出会いを経験していたのだと思う。

人が物語を必要とするのはなぜか。改めて考える。小説を読むとはどういうことか。

私は、こう思う。

物語を読む私は、他者になれる。

他者になった私は、物語を読み終えたあと、ふたたび私に帰ってきたとき、おそらく、それ以前の私から、少しだけ変わっている。どう変わっているのかは知らない。

でもどう変わったにせよ、自分の中にある、やわらかい石のようなものに、新しい面が加わっていることだろう。自分の中にある石には、この、面を、できるだけ多く与えたい。面とは、どちらかというと、優しさ、弱さ、小ささだろう。そして石とは、私の精神のコアの部分だろう。

少年の日に読んだ「小さな家」の物語いらい、わたしは、出会った多くの物語のおかげで、弱さや小ささを、私の精神のコアに抱くことを、かけがえのないことと思えるようになった。

そしてそれは、繰り返すが、他者になることを通してであった。

「小さな家」の物語は、私の記憶の中では、はじめてそれを与えてくれたものだった。