野村幻雪師

亡くなられた野村幻雪師に哀悼したい。

師の舞台に初めて接したのは、2008年6月の「関寺小町」だった。この舞台に居合わせることができたのは、今思えば、非常に幸運なことだった。

 

とても感動したことを覚えている。確かに、最奥の秘曲をようやく観ることができたから、ということではあった。だがそれは間違いなく、野村四郎師(当時)の舞台だったからこその、比類ない感動であった。

 

幼く可憐な稚児に対し、老いた小町が、永遠に不変な歌の美しさを説く。それでも、美しい稚児による七夕の舞は、永遠の美を説いた小町の目にあっても、どうしても可憐に映った。それを眺める老いた小町は、おぼおえず、自分も舞おうとした。しかし老いさらばえた身体では、うまく舞えはしなかった。

このとき悲嘆にくれる小町を包み込むように、「哀れやな」と謡われた。

この「哀れさ」は、それは、どうしようもない時の進行、老いていくかつて美しかった我が身のかなしさに対する詠嘆であった。しかしその先の地平で、この、老いること、即ち生きることの「哀れさ」は、「永遠」や「若やぎ」を超える叫びとして存在した。

私は師の「関寺小町」をそのように観た。

なぜ「小町物」と言われる老女能が、今を生きる者がシテの現在能であるのか、わかったように思った。そこに存在する小町は、決して亡霊ではありえない。生きている小町が、老いゆく今を語る。そしてそれを演じる能役者がいる。

 

学生の頃に能と出会っていらい、私は、結構たくさんの舞台を観てきたように思う。

凡庸な舞台は、美しさの印象くらい残るかもしれないが、それまでだった。時の経過とともにそのような舞台のことは忘れていった。

しかし感動する舞台に触れたら、どういうわけか、「能とはなにか」と問わずにいられなかった。そして「生きる」ことについて、深く考えさせられるのであった。そしてそのような問いは、舞台から何年過ぎても、続くのであった。

私は、師の「関寺小町」を観たときの問いを、今も抱えて生きている。それは能という舞台芸術が、美しさの向こう側に到達したときに、与えてくれたものであった。

 

野村四郎幻雪師の舞台とは、まさにそのような舞台であった。