悪いこと

凶悪な事件とか、戦争とか、災害とか、「悪いこと」はなぜ起きるのか。もし「悪いこと」が起きなければ、私たちの住む世界はどうなっているのか。

「悪いこと」が起きたとき、当事者にとっては、特に被害者にとっては、その人の人生における痛恨事であって、もはや取り戻せない過去は悔やんでも悔やみきれない。その過去を背負ってそれでもなお生きなければならないことは辛いと思う。でも、「悪いこと」の当事者になり得ない大多数の個人にとって、あるいはそのような大多数の個人が生きる世間や社会にとって、「悪いこと」は、何を意味するのだろうか。

もしも、私たちの世間や社会に「悪いこと」がなかったならば、そのような世界は、どんなだろうか。

ちょっと想像できない。

もちろん、「悪いこと」なんか起きないでほしい。エゴだが、少なくとも自分に近しい人にとってだけは「悪いこと」と無縁であってほしい。

それでも「悪いこと」が起きない世間や社会は想像できない。

「悪いこと」って、なんなんだろうか。

この問いに答えはない。

でもなんとなく思うのは、私たちの世間や社会に「悪いこと」が起こるのと、私たち個人が「悪いこと」をするのとは、パラレルな関係にあるのではないかということだ。

大なり小なり、私たちは生きる上で「悪いこと」をしてしまっている。それが犯罪になるか、謝れば許してもらえるか、誰にも知られずに済むかは、究極的には地続きで、私たちはその線上のどこかのポイントにたまたま立っているに過ぎない。このことを私たちはオウム真理教の事件から学んだ。

飛躍かもしれないが、私たちの世間や社会にどうしても起きてしまう「悪いこと」をどう考えるかという問題は、私たち個人がどうしても犯してしまう「悪いこと」にどう向き合うかという問題と、通底しているのだと思う。

たまたま自分が居合す時代に発生する災害と、その都度、私たちはイヤというほど付き合ってきた。それでも、私たちは災害がいつか必ずまた発生するこの大地で生き続けてきた。なぜならその大地は、災害ももたらすが恵みも与えてくれたから。

むしろ、災害時に「悪」を顕現させたのは、災害そのものというよりも、私たちの世間や社会の側だった。このことを私たちは東日本大震災から学んだ。

新型コロナウィルスの感染拡大は間違いなく私たちにとって「悪いこと」だろう。でも、新型コロナウィルス感染拡大の「悪さ」は、「ウィルス=悪」だけを意味するのではないと思う。むしろ、ウィルスそのものは「悪」の引き金であって、その引き金を引いたことで顕現した「悪」の本体は、いよいよ私たちの世間や社会の側にはっきり姿を現したことと思う。そしてその引き金を引いたのは紛れもなく私たち自身だ。

このことが、「悪いこと」の当事者になり得ない大多数の個人にとって、あるいはそのような大多数の個人が生きる世間や社会にとって、「悪いこと」が持つ意味なのではないか。

そしてこの「悪」について考えることは、私自身の「悪」について考えることとつながる。

そしてこの私自身の「悪」について問うために、私たちには文学という方法以外にはないのではないかと思う。