昨年の9月末に、朝、自動車に乗ってラジオをかけていたら、アララさんというリスナーからの、彼女の誕生日にあたる日のリクエスト曲で、「風をあつめて」が流れた。

アララさんは、ALSの確定診断を受けたばかりだった。診断が下ったその日を境に、「クラゲのように、ふわふわと漂っていた人生が、周りの海水の色が、ほんの少し濃くなったように感じた」と、メッセージが添えられていた。

その日、帰ってからこの曲が収められたCDをアマゾンで買った。いま、そのCDは自動車の中にあり、時々、運転しながら聴いている。

もう1年になるけれど、アララさんは、いま、どこでなにをしているだろう。自動車に乗って「風をあつめて」を流すたびに、ALSと共にどこかで暮らしているだろうアララさんのことを想像する。もうすぐ、9月30日はアララさんの誕生日である。

 

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生きていると、不意に、私がその人の人生に登場することはないのに、私の方は、その人の知らないところで、その人の人生に触れてしまうということがある。

私にとって私の人生は当たり前で、そこで生きる私の存在も、私にとっては当たり前なのに、誰かの人生にとっては、私の存在は当たり前ではない。その人の人生の最初から最後まで、私は存在すらしない。

アララさんはそうだ。また、街角を歩いていてすれ違う人のことがなぜか印象に残って、後からも思い出すということもそう。知らない人のブログを読んでコメントを残さずに去るのも、ある意味ではそうだと思う。

そのような「誰か」とは、「出会った」とは言えない。せいぜい「触れた」くらいがしっくりくるように思う。ブログなんかだと「覗き見」という言葉を使う人がいるけれど、私はそんなじゃない。

でも、出会ったことのない「誰か」が、私の中に、結構な重みを持って存在することがある。その人の物語に私は存在しないけれど、私の物語にはその人が存在している。(私にもそのような人がいるのかなと想像してみたりもする。)

これは死者との生前から続く関係も、そのようなものかもしれないなと思う。生きている私には、もはや死者の存在が目には見えない。でも、死者の側からは、生きている私の存在はきっと見えているのだろう。

ところで、人と人が出会うことを、昔、物語と物語が出会って、新しい物語をつくることと言って、笑われたことがある。なーにキザなこと言ってるのと言って。

でも、そう笑った人の物語を大切にすることが、私にとっては、その人と出会うことの意味だった。結局うまくいかなかったけれど、そんなふうに考えることができたから、今の私がいる。これが正しいのかわからないけれど、少なくとも私はそういう考え方が好きだ。

「出会う」は、私の物語にあなたが登場するのと同じくらい、あなたの物語に私が登場することなんだと思う。その関係において「あなた」は、「誰か」ではない。

夜、散歩で湖岸に出ると、対岸の街明かりが、ポツポツと見える。ああ、あそこに街があって、そこには人が暮らしているなと思う。でもその街に暮らす人は、まさか対岸にいる誰かからそんなことを思われているだなんて思いもしない。

そして私は思う。死者との生前からの関係は、死を境にしても、「あなた」の関係だ。あなたへの呼びかけに対する私への応答がなくとも、あなたのことを私は「あなた」と呼ぶ。そう呼びかける私の暮らしを、あなたはきっとどこかで見て、触れている。私にあなたが見えなくても、あなたには私が見えている。そんなあなたの存在を私は、私の物語の中で、想像する。生きている私の物語の中に、あなたは存在している。