夢を見た。


相沢が、山奥の小屋の外、岩の上に一人腰かけて、夜の月を見ている。谷川で汲んだ冷たい水を飲みながら、遠く近くの微かな音に耳を澄ませている。辺りは、一層静かだ。月明かりに照らされた、彼の頬は、蝋のように透き通っている。
その頬の上を、一筋の涙が伝う。

小説は進まず、時間は過ぎる。
しかし、焦りはない。
まだ始まったばかりだから。

「ねぇ、なぜ泣くの」
「自分の、才の無さは分かりきっていたんだ。ただ、そう知りながらも、諦めきれなかったんだ。僕は、大学を卒業して、東京に来た。そこで、会社に入って、生きていこうと思った。」
「なのに泣くの?」
「小説を読むのは楽しい。この上なく楽しい。でも、それだけでは、いけないんだ。書きたい。書くことはないけどそれでも書きたい。書くことで生きていきたい。生きることを小説に捧げたい、そう思ったのに、書けない。思いだけでは書けない。それが、」
「それが、悔しいのね?」
「悔しいんじゃない。情けないのでもない。ただ、小さい頃から、ずっと、本を読むのが好きだった。喜びを、小説の中に見出してきた。ずっと、そう生きてきた。それなのに、それでも、書けないんだ。僕は今まで、何をしてきたのか。」
「あなたは、いつも力の限り生きてきた。その時その時の関心の赴くまま、全力で対象に力を注いできた。そうして生きてきたのが、何にもならない訳ないじゃない。涙をふきなさい。あなたの人生は始まったばかり。これから、なんだって出来るわ。」

私には何だって出来る。この言葉を、誰かに言ってほしかった。今日も何も書けなかった。でも、明日また日が昇る。また、紙に向かう。朝になれば、もう一度始めよう。きっと書ける。