2022年1月29日

ほんとうなら今ごろ、新幹線に乗って東京方面に向かっているところだった。

今日は、横浜能楽堂で「関寺小町」の日だ。もしかしたら、14時の開演よりかなり早めに着くよう朝早く新幹線に乗り、能楽堂に行く前に、かつて住んでいた大森の、毎日のように通っていた喫茶店を訪れていたかもしれない。

東京には感染症が拡大して以来ずっと行けていなかったから、きっと今晩泊まるホテルも予約しておいて、夜は、大好きだったお店の美味しいものを食べて、そのあと行きつけだったBarでお酒を飲み、昼に観た「関寺小町」の余韻にいつまでも浸りながら、バーテンダーと、数年ぶりの再会を楽しんでいたことだろう。Barの、大切な故人のことを静かに偲んでもいただろう。

チケットは、正面の良い席を発売日に購入していた。年齢や、仕事や、交際関係が移ろい、私を取り巻く暮らしや環境が大きく変わろうとしているいま、たぶんこれから能を観ることができるのは、人生でそう多くはない、もしかしたらほとんどないとすら思っていたので、今日の「関寺小町」には、人生最後くらいの心構えで、臨もうと思っていた。

今日という日が自分の人生にとって特別な意味を持つだろうことを、100%確定した未来として確信していた。

でも実際の今、私は、家族が買い物に出かけたあとの家に残り、一人、PCに向かっている。かなり悩んだが、チケットは、今回特別に認められた払い戻しの手続きを済ませた。「関寺小町」を観ることを、やめた。

東京に行くことで得られると予想できるよろこびに対し、もしこのタイミングで感染症が発症してしまったときに予想される恐怖の方が、まさってしまったからだ。

私は市民社会に生きていると信じている。市民社会を支える市民は、いつどこで、誰と、何をしようと、そのことを政府に対し報告する義務などないと信じている。それでももし、このタイミングで感染症が発症したならば、今はやはり、それら全てを、可能なかぎり詳細に、政府の一機関に対し、報告すべきなのだろう。

そのとき、もし真実は、いつもの買い物に行った家族がスーパーマーケットで感染したウィルスに、家庭内で私が感染したことで発症したということが、証すことが困難な真実だったとしても、きっと「私」は、東京方面に向かう新幹線に乗り、人が密集する能楽堂で能を観たと政府の一機関に報告することで、そのような行動を取った「自分」を、悪者にしてしまうのだろう。またそのような行動を取った「私」のことを、「世間」は悪者にしていると想像するのだろう。

この、「私」から悪者とされる「自分」、「私」を悪者にする「世間」に、実体はない。あるのは、当たり前のことに気を付けたという事実だけである。そこには、いつもより一層気を付けて、東京方面に向かう新幹線に乗り、咳をしないように注意をしながら能楽堂の椅子に座る「自分」と、おそらくいつもより一層またはいつも通りに気を付けて能楽堂の椅子に座る他の観客と、換気や消毒等に最大限の努力を払う主催者がいる。それだけである。

しかし政府の一機関に報告する「私」はおそらくそのような「自分」をも「軽率であった」として責めるだろう。そして、そのような「私」を責める「世間」の存在をも想像する。その想像はリアルで生々しく、つらい。

私は都会から遠く離れた小さな街に住んでいる。私が住む街では一日の明らかになる感染者数が先日はじめて100人を超えたことで、人々は、大いに恐れおののいた。感染することが、まだこの街の人々の日常風景にはない。そこでは感染者は「特別」な存在で、そしてそこを覆う「世間」の感触はリアルだ。

今、世界には二種類の世間があると思う。一つは感染がすでに日常となった世間で、もう一つは感染がまだ日常ではない世間だ。後者に暮らす私は、やはりそのような世間を自らにも深く内面化してしまっている。世間体とはこのことかもしれない。

「世間体なんて気にしなくても良い」。それはそうなのかもしれない。私は市民なのだから。自分の行動に責任を持ち、起きた結果に対し自らで引き受ける。そのような人々が隣りあい、時に連帯し、時に助け合いながら暮らしているのが市民社会だと思う。

でも私は、リアルなものとしての想像の内に存在する世間に対し、自分は市民社会に生きているのだからというだけの強さを持ち得られていない。「世間」に「迷惑をかける」ことが結果招く恐怖を気にやむ。

だからもう、「安直」な方法に出るしかなかった。人生最後とまで思った「関寺小町」を観ることをやめた。そうすれば、少なくとも、もしこれからいつ発症したとしても、2022年1月29日の自分の行動について、「世間」をやまなくてよい。

現在、13時20分。この記事を書き始めてから、2時間くらい経った。開演まであと40分。13時開場だから、ほんとうなら今ごろ、正面の良い席に座り、配布された番組に目を通しながら、解説を読み、期待に胸を膨らませていることだろう。トイレは済ませたかな。携帯電話は、音が鳴らないように設定できているかな。前に座る人の座高はどうかな。演者の足先まで観えるだろうか。でももしも、前に座る人の座高が高くてもそれはそれで仕方ない。生の舞台とは、そういうことが付き物だし、それで良い。開演中お腹が痛くならないように、きっと、昼食はあっさりしたもので済ますか、何も食べなかっただろう。時節柄、会場内は、開演前であってもシーンと静まり返っているだろう。痺れるような緊張感の中で、今日は、最高の関寺小町が演じられるだろう。

能とは、演者だけではなく、観客も含めた、皆が、その場限りの、一回こっきりの奇跡を、その瞬間にその場で、その場にいる者達だけで、紡ぎあげる。そしてその時その場に到来し存在する何者かに対して、捧げられる。

 

私も今日、その空間に参加していたかった。

本当に残念だ。でも、誰のせいでもない。誰も悪くない。本日の舞台が、そこに居合わせた人々によって、最高のものに紡ぎあげられることを、心から祈る。

 

NHKが撮影に入るそうだが、能は、リモートでは、画面越しでは、録画再生では、その奥底に持つ力の、ごくわずかしか伝わらない。

 

それこそが、心より心に伝ふる花。

 

今、この世界で、私は、能楽堂で空間を共にすることはできないが、ある意味では万感の思いで、「関寺小町」が上演される今日という日を生きる。

「生きる」ということを考える。