2008-10-01から1ヶ月間の記事一覧

私が7歳の頃、昼間の台所でおやつを作る母に年齢を聞いたら、母は「33歳」と言った。今もそう。母は、私の中で、ずっと33歳のままだ。

街は、丘陵の上に成り立っている。起伏を登り下りし、高い地点からは街全体を見渡せ、低いところに至ると、建物の屋根越しに、遠く、高い建物を望むことになる。風景が、そのようにコロコロ変わり、歩いていて楽しい。住宅街を抜けると、道は、そのまま古ぼ…

坂を登り切ると、丘の上には、左右に延びる広い道があった。道は、きれいな石で特別に舗装されていた。道の両側には、ゆったりと間隔を置いて、家や教会があり、庭の緑は豊かだった。大学もあった。そして、それらのほとんどが、建てられてから長い年月を経…

いや、当時も、思い悩みはずっと、癒えることなんか無かったのかもしれない。でも、それを越えることのできる、若さがあった。若い私は、記憶の中で、いつも笑っている。当時の悩み、きっと、深刻な悩みを抱えていたのだろうけど、そこにあったはずの醜さが…

制服を着た女子高生が何人も坂を下ってくる。三、四人連れ立って、笑い声が、秋空に弾む。まだ熟れない果実の、みずみずしさ。私にも、かつてあんなときがあった。 彼女たちと同じ頃、いつもケラケラ笑っていた。将来に対する不安、現在への不満、いろいろあ…

改札を抜けると、そのまま、目の前に、丘の上に向って伸びる坂がある。幅の狭い坂の両側には、わずかな隙間もないくらいびっしりと住宅が詰まっている。かなり急な坂に、すぐ、息が上がる。途中、自動販売機でお茶を買う。

窓外に見る風景は、どこまでも途切れない。一瞬、切れた、と思っても、大きな川、すぐまた同じ街並みが始まる。電車は、夫が毎朝乗るのとは、反対の方向に向って進んでいる。 私たちの向かいには、小さな赤ちゃんをベビーカーに乗せた、東南アジアのどこかの…

どこ行くというあてもなく、歩き始める。透明の日差しを受けた道の上、落ち葉を踏む音も心地よい。 この人はどこに行こうとしているのだろう?私は知らない。いつも、ただ、ついて行くだけで、それでも、きっと、私の知らない素敵なところを案内してくれた。…

夫は、玄関の戸口に腰かけて待っていた。ドアは開いていた。 私よりも15センチ高い178センチの夫は、最近、少し太ったと言っているが、それでも、昼間見ると学生の頃と変わらない背中だ。おまたせ、と言った。夫は立ち上がり、玄関の外を向いたまま「じゃ、…

洗い物が済むと、寝室へ行き、服を着替える。長袖のポロを着る。スカートをやめてコットンパンツに履き替える。歩くのが好きな夫の事、きっと長い距離を言うのだろう。 鏡台のいすに腰かける。髪に、ブラシを当てる。結婚して、しばらく経ってから短くした。…

「そう」 なぜ、みずから苦しむのか。 「最近、多いのね。」 「…」 「ねぇ、ここしばらく、とても良い天気が続くわ。いつのまにか秋になって、町はキンモクセイの香りで一杯、時々、家の中にも流れてくる。でも、こんな時に、あなたはなんだかとっても辛そう…

翌朝、いつものように目が覚めた。横で夫は眠っている。その頬はこけている。 私を怖れる夫、でも、死んだように眠るその顔を見ていると、思わず髪を撫でてやりたくなる。今日は休みの日。夫を起こさないように、そっと床から滑り出た。身支度を済ませ、朝ご…

どんなに遅くなろうとも、私は起きて待っていた。玄関の鍵を開ける音がして、それから夫が荒い息をして部屋に入ってくると、私は黙ってコップ一杯の水を差しだした。夫はそれを受け取ると、一息に飲み干した。手の甲で口を拭う夫の眼は、充血していた。 私は…

夫の帰らない夜は、いつも、空想にふけって過ごした。 *** むかし、あるところに女の子がいた。遠い道のかたわらにポツンと一軒しかないその家の外で、近所に友達はいなかった。それでも、そんな女の子の家にも、毎年、春になると必ずやってくる人達があった…

*** でも、今はまた幸福なのです。ずっと続くのです。今では、私はいつでも夫に会うことができるから。こうして、月の明るい晩に井戸を覗きこめば、そこには夫がいる。私に向って、笑いかけてくれる。だから私は、この井戸のそばを決して離れない。 *** それ…

家から湖岸までは、ゆっくりと、20分間の距離だった。その間を、彼は私の少し前を歩き、互いに一言も喋らなかった。途中、辺りに高い建物が無くなる一本道で、時折強く吹き付ける風に、長い間かけて伸ばしていた髪がむちゃくちゃになびいた。私はその都度、…

夫婦になる以前、大学の最後の年の、今日のように月の明るい夜、夫が突然私を訪ねてきたことがある。 そのとき私は、家に一人でいた。両親は、前日から親戚の家に泊まりで出かけていた。こんな月のきれいな夜に、何か本音で語りあうことのできる相手がいたら…

結婚した年の夏、夫と湖で遊んだ事がある。小雨降りしきる中、傘もささずに湖畔の道を歩いた。冷やりした雨が心地よかった。夫は、そのとき夢中になっているもの、小説について語ってくれた。自分もいつか、良い小説を書きたいと言っていた。 「山深い森の中…

「いつものことだと平気になりたかった」そのとき、女はアパートの2階の窓辺から街灯に照らされた外を見ていた。夫が玄関のドアをを閉めるかすかな音が聞こえた。自分に知られまいと、そっと閉めているのがよくわかった。この夜の明かりに照らし出されるよう…

*** 「待つ。あの日、私は待つことができた。それは、信じることができたから。…何を?私は、何を信じたのだろう?あの時、私は何を信じていたのだろう?」 ***女がいる。女は、手に花を持っている。それを、井戸の前に供え、静かに祈りをはじめた。若く、美し…