「ヤマノシヌイ」

月夜の晩、四国のある山奥の川のせせらぎで、女がひとり、清らかな水を浴びている。月の光の中で、生まれたままの女のからだは、ほの白く透き通っている。女は、ある満月の夜に亡くなったおばあさんが流した涙が、この川でいのちを宿したときに生まれた。生まれながらに、長い黒髪と、豊満な胸をもっていた。美しい女、しかし、どこか寂しげだった。

ヤマノシヌイが、女に語りかける。
「おうい、お前、なぜ一人でいる?」
「ずっと一人だったわ。今までも、今も。」
「おれが近くにいってもいいか?」
「あなたは、私を食べるつもりなんでしょう。私は、食べてもおいしくない、だから、それはだめよ。でも、もしあなたが私とお喋りをしたいというのなら、どうぞ喜んで。わたしも、ずっと誰かと話したいと思っていたの。」

ヤマノシヌイは、その毛むくじゃらの体を岩陰に隠して、近づけるだけ女に近づいた。そうして、手をのばせば、女の肩にかかった髪に触れられる距離で、女にしゃべりかけた。
「おれは、こんな明るい晩には、きっと川におりる。川の水を飲み、魚を喰う。そうすれば、おれは腹もいっぱいになり、眠くなる。おれは、きっと、この岩陰にこうして(と言いながら、女に見えない位置でヤマノシヌイは身を横たえた)寝る。風は、空の星や月について俺に教えてくれる。」
「星は、なぜ光ったり消えたりするの?」
「星は、誰かが生まれたときに光って、誰かが死んだときに消える。星は、生まれた時からずっと、俺たちを見ている。星は、俺たちをいつも見ている。」
「星のない夜だってあるわ。」
「星は、あるときにはおれの見えないところで光っている。でもそれは、ないんじゃないんだ。あるのに、見えないだけなんだ。」
「ねぇ、だからあなたはいつも楽しそうなのね。」
「おれは、いつも笑っている。何か楽しいことがあれば笑うし、何もなくても笑う。それは、星がおれを見ていてくれるからなんだ。」
「ねぇ、いつか、私もあなたもいなくなったら、誰がこの星の話をするんだろう。ねぇ、私は、今日おばあさんのところに帰るの。私と今話したことを、ずっと忘れないで。私がいなくなった後、あなたがいなくなった後にも、きっと、ここであなたと私が話したということを、忘れないで。ね。」
「お前、いなくなるのか?」

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静かな晩。
ヤマノシヌイは、初めて涙というものを知った。
それは、本当に静かな、静かな晩のことであった。