2008-08-01から1ヶ月間の記事一覧

書けない。 書きたいのに、書けない。ここにコップがある、中には水が入っていない。たとえ水を注いでも、コップが水を吸い込み、一滴も中には残らない。そんな状態だ。相沢の焦りは極度に達した。山に入って、そろそろ半年になる。しかしまだ一作も書けてい…

夜、寒さで目が覚めた時、外は雨だった。 寝る前に閉めたはずの窓が開いていた。雨が、山小屋の中に吹き込んでいた。相沢は、起きて灯をつけた。部屋の隅におばあさんがうずくまっていた。おばあさんは、壁にもたれかかって床にすわりこみ、顔を、すわりこん…

女は、好きという気持ちが、捨てられると、 三倍にも四倍にも強い憎しみに変わるものです。 捨てられた女は、どこまでも男を追った。 男は、もう大分離れた場所に至ろうとしていたが、それでも女は走った。 情念。性の薄皮がはじけ、怒り悲しみ愛が、女の感…

ある男がいた。今年四十になるその男には、妻と、娘が一人いた。 男は、その年の春に三社目の会社を辞めた。そしてその一週間後の朝には、新しい職場に机を得ていた。再就職はそれほど難しいことではなかった。男には、それまでに少なからぬ実績があったから…

相沢は、歌を聴くことが好きだった。東京に住んでいた頃、MySpaceから適当に検索して好きになる歌と出会えたら、その歌を聴きながら自分自身の創作にふけった。書くことは、歌を聴くことで加速された。相沢にとって、歌は、小説の背後に存在するものだった。…

「カティー・サーク」相沢がまだ東京で働いていた頃、時々酒を飲みに行った。それは、大抵、土曜の夕方の、早い時間帯だった。 席に着くと、何も言わなくても、カティー・サークのダブルのオン・ザ・ロックが出された。相沢は、その最初の一飲みが、好きだっ…

ある晩、山小屋におばあさんがやってきた。 おばあさんは、何も言わずに小屋の入口に立っていた。相沢はペンを持って、原稿紙に向かっていた。夏は終わろうとしており、夜風はひいやりとしていた。おばあさんの背後には、暗い森が広がっていた。 「何をしてい…

相沢の実家は滋賀県で、家から琵琶湖までは歩いて行くことが出来た。夏のまだ涼しい早朝に、湖岸を散歩するのは楽しかった。また、夜の琵琶湖を、公園のいすに座っていつまでも眺めているのも、好きだった。相沢は、京都の大学を卒業後東京で住むようになる…

「盆」今日は、母の実家に来ている。 昼過ぎに着き、夕立の後、涼しくなったので、皆で墓参りに行った。 墓参りから帰ったら、そのまま夕ご飯となった。親類と、皆ですき焼きである。 そして、夕食の後、お腹いっぱいの腹を抱えて、一人、散歩に出た。街灯が少…

「ヤマノシヌイ」月夜の晩、四国のある山奥の川のせせらぎで、女がひとり、清らかな水を浴びている。月の光の中で、生まれたままの女のからだは、ほの白く透き通っている。女は、ある満月の夜に亡くなったおばあさんが流した涙が、この川でいのちを宿したと…

夢を見た。 相沢が、山奥の小屋の外、岩の上に一人腰かけて、夜の月を見ている。谷川で汲んだ冷たい水を飲みながら、遠く近くの微かな音に耳を澄ませている。辺りは、一層静かだ。月明かりに照らされた、彼の頬は、蝋のように透き通っている。 その頬の上を…

疲れたと、相沢は言った。 「疲れた。何をするにも、疲れた。俺は、今日限りで会社を辞める。実は、一つだけ、人生でやりたいことがあるんだ。」 何を? 「俺は、小説家になる。今まで貯めた金で、一年間山に籠もる。一年かけて、いい小説を、一つ創る。」相…