ある男がいた。今年四十になるその男には、妻と、娘が一人いた。
男は、その年の春に三社目の会社を辞めた。そしてその一週間後の朝には、新しい職場に机を得ていた。再就職はそれほど難しいことではなかった。男には、それまでに少なからぬ実績があったから。しかし、男は不安だった。眠れぬ夜もあった。何が不安か。新しい職場において、男に期待されたカーブを期待されるままに描けられるかということは、もちろん不安であった。新しい職場の、人間関係も無論不安であった。
男は、見かけほど心強くない。が、しかしそれ以上に、一人娘のことが心配だった。娘は、今年小学六年になる。来年には中学生になる。
娘は、受験を希望していた。
男は、今回の転職で収入が減じ、それまでの生活を維持できなくなっていた。それまでも、娘の塾代は、男の母親に出してもらっていたが、娘が私立中学に入学した際の学費は、到底新しい収入では払えない。また母親に助けてもらうことも、いやだった。
金がない。自分が稼げないから娘の希望を叶えてやれない。「イケてない自分がいる」とは、この頃の男の口癖だった。