「関寺小町?」
「うん。数ある能の曲の中で、最奥の曲とされていて、ほとんどの能楽師がこの曲を披くことなく終わるような曲」
「すごいんだ」
「むちゃくちゃ。観て、人生が変わった。」
     ***
「この能は、永遠と時間を描いた能で、
百歳の小町は移りゆく存在・滅びゆく存在で。その彼女が、幼く可愛い稚児に対して、永遠に不変な「和歌」についてこう説く。曰く、和歌は永遠不変である。琵琶湖の砂がなくなろうとも、言の葉をついだ和歌の美しさは決して損なわれることはない。
でも、それをいう小町にはかつて若かりし頃の美しさはもうすでになくって、
老いさびれたわが身には、仏道も何もなく、ただ、和歌を詠ずることでのみ日々を送っている。小町自身は、老いている。
老い果てた小町は、歌について語る動かない小町は、まるで歌そのもののようで、歌が、人間を纏ったようで、
でもしかし、「哀れやな」と歌うとき、そのとき、この曲において、永遠不変の美しさを、人間の老いは超越する。
人間の哀しさは、和歌の美しさを超越する。永遠をすべて包み込んだ、変化するものとしての時間、変わらない美しさではなく変化せざるを得ないことの「あはれ」。もはや、美しさを求めていない。美しさとは次元を異にする花を求めており、それこそ、老い木の花なんじゃないか。歌は、永遠であり、生命には、限りがあるということ。
でも、さらに、それすらも超越したものとして、歌の生身の体として、永遠と時間が重なりあう一つの場として、小町の存在はある。動き、生命の残り香を振り絞って、よろよろと舞を舞う。歌を詠んだ、この体が。だからこそ、関寺小町は現在能でなくてはならなかった。今もなお、老いは進行していて、
死に向かっている。井筒のように、若やいだ美しさは死んだ女の中に封じ込まれていない。小町は生きている。今も、進んでいる。老いとは、生きることである」
     ***
「僕は、本当に東京に来てよかった。大学を卒業して、偶然、勤務地が東京になったのは、これを観るためにあったのだと思う。本当にすごいんだ」
「…」
「ほんとに、本当にすごかったんだ」

「相変わらずね」
「何が?」
「相変わらず、目が、」
「キラキラしてる?」
「すごく。相沢君は、話をするとき、いつも遠くを見つめる目で、キラキラした目で、話すの。気づいてた?」
「本当かは知らないけど。だけど、」
     ***
だけど、君と会えなくなってから、そんなふうになる事は一度もなかった。
ずっと、会いたかった。
     ***
「だけど?」
「ううん、実は久しぶりにそう言われた。学生の頃はよく言われたけど」
「今も変わらないわよ」
「そう言ってもらえて嬉しいよ」
     ***
それと、小町の舞を見ながら、特に、幾重にも衣にまとわれた小町の背中を見ながら、この人は子供を産んだことはあるんだろうか、と思った。