ある晩、山小屋におばあさんがやってきた。
おばあさんは、何も言わずに小屋の入口に立っていた。相沢はペンを持って、原稿紙に向かっていた。夏は終わろうとしており、夜風はひいやりとしていた。おばあさんの背後には、暗い森が広がっていた。


「何をしているのですか」。
  …おばあさんは答えない。
「僕は、小説を書こうとしているところです。と言っても、今日はまだ一文字も書いていません。昨日も書きませんでした。書けなかったのです」。
「僕は、自分の才能の無さに愛想をつきかけています。それでも、怖いことは全くありません。僕には、書きたい情景があるんです。それがあるから、少しも怖くないんです」。
「そこには、あなたのようなおばあさんがいます。古い大きな家の、座敷の縁にあなたは腰掛けています。座敷には、小面が一つ、見える位置にかかっています。見えないところで、家の外で、女の子が美しく歌っています。きっと、あなたの家族だと思います。あなたは、女の子が歌うのを聞きながら、静かに笑っているんです。そんな情景です」。


老いた人を書きたいと、相沢は思っていた。老いた人を美しく、老いた人の美しさを、書きたいと思っていた。そこには哀しさがあり、そしてなによりもまず、静かであるべきであった。老いた人は女性で、その身に纏った幾重もの衣の奥に、深い哀しみが潜んでいた。性。かつて子供を産んだことのあるその体が、今は、幾重もの衣の奥から静かな哀しみを湛えている。そんな情景だった。


「…」。

あいかわらず、おばあさんは何も言わない。
相沢も、ただおばあさんを見つめていた。