堀辰雄の「菜穂子」。その時、相沢が最も好んで読んでいた作家で、図書館で借りた彼の薄紫色の表紙の全集を、いつもカバンに持ち歩いていた。静かな夕べなんかに、誰もいない部屋で「姨捨」を読み終えたときなどは、なんかこう、ふふと笑いだしたくなるような、透明な読後感を、それも、じわじわと染み入るような感動をもたらしてくれる作家だった。その時、相沢は、静かで儚いものに心惹かれていた。
     ***
それは、授業が始まるまでの時間、一人、教室の前方の端に席を占め、講義が始まるのを待っているときだった。唐突に、今まで会話したことのない、それも、女性から声をかけられ、相沢はまごついた。
「え?」
「その、あなたが今読んでる本。とてもきれいね」
「ああ、…堀辰雄
「好きなの?」
「うん」
「へぇ…、そうなんだ」
直後に講義が始まったので、会話はそこで途切れた。相沢も、すぐに気を移し板書をノートに取ることに集中した。内容は、万葉歌人のそれぞれの歌風についてだった。なかでも相沢は、赤人の写実的な歌が好きだった。まじめな学生だったのだ。
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その授業が終わると、相沢はそそくさと席を立ち、一人で教室を後にした。その少し後に、女が相沢の座っていた席に目をやると、相沢はすでに去った後だった。それから、少し落胆し、どこかつまらなそうに教室を後にした。相沢も女も、その日はその授業で終わりだった。