投票

10月31日は仕事なので、本当は投票日当日に投票したかったが、今日、期日前投票に行ってきた。昨晩、どの候補者と政党に入れようか考えていたものの、今朝起きてから、姪の七五三の晴れ姿や、痛めていた腰を休めに温泉に浸かったりとかしているうちに、なんだか昨晩の考えも途中でどこかへ放り投げたようになってしまい、昼寝の後で自動車を運転し投票所にたどり着いて、記載台でいざ投票用紙に向かった際に、意外なくらい、あれっと、立ち止まってしまった。

結局、昨晩まで考えていたのとは異なる投票内容になった。

私は、自分の投票行動が、投票した候補者の当選という結果が伴わなくとも、良いと思っている。私の住む選挙区では、与党候補と野党候補の一騎打ちになったが、どちらの候補者も、過去の政治家としての仕事は信頼して良いと思う。今回当選する候補者によって、もしも自分の考えと異なる政策が選択されたとしても、その社会の中で一人の市民として働き、生きていくことの覚悟はある。だから、昨晩考えていた候補者とは異なる候補者に投票することになったが、それでも良かったと思っている。

ただ、自分の投票行動は、自分がそこに含まれている社会というか、世間というか、とにかく市民が集まった集団の姿そのものに、直接つながる。そこで私が投票することが、私がそこに含まれている集まりが結果とる投票数というものに対して、明確に一人分の上乗せになることには、市民としての私にとりとても大切な意味があると思う。

国民審査も、国民審査公報を読んでから臨んだ。

私は法について専門ではないから、私の感覚が正しいのかはわからないが、もし私が裁かれる場に立った時に、私が向き合う裁判官は、人として信頼できる人間であって欲しい。裁判官が持つ「正しさ」が、必ずしも私が持つのと同じ「正しさ」でなくても良い。ただ、もしも、世俗社会における「正しさ」と私の「正しさ」にズレが生じてしまい、そのことから私が裁かれる立場に立った時が来たとして、その時に、私は私が信頼できる人から、裁きの言葉を伝えられたい。

公報に記載された情報は、それはおそらく共通したテーマについてそれぞれの裁判官が所見を記載したものだろうが、とても短い。それでも、私はそのあたりのことを自分なりに考えながら、公報をきちんと読んだ上で、国民審査に臨んだ。

今これを書いているこの時間にはもうほとんど消えてしまったが、投票所から帰りの自動車を運転しながら、今日の投票内容は「正しかった」のかなと、にぶい痛みみたいなものが、正直、残った。でもこの痛みみたいなものを抱いた今日の私の感覚を、私は、これからも選挙のたびに、投票後に抱けるようでありたいと思った。

単純な投票行動だったが、それは私の、世界や社会に対する一人の市民としての痛みの感覚を込めた行動だったと、思える。