被害者、加害者、犠牲者①

「もう寝るわ。」

「ねえ、今日はなんの日か知ってる?」

「んー、なんの日?」

地下鉄サリン事件があった日。」

「わあそんな恐ろしい日なの。」

「でもあまり報道されてないね。」

「世間はそれどころじゃあ、ないんじゃない。」

「うん、まあ、そんなもんかなあ。」

「おやすみ」

「おやすみ」

 

日付が変わる直前、おやすみと言って二階に上がろうとする母と交わしたさっきの会話だ。はや二階からは一緒に上がった父のいびきが聞こえてくる。それを一階で私は聞いている。なぜか空しい。そうか、そうかもしれない、と思いかけた。でも、しかし、と思いとどまった。

以前あるところで、彼らも犠牲者だと思うと書いた。そのときにはあまり深く考えなかったが、その後、このことについて考えることを、やめられなくなった。今の私にどこまで書けるのかわからない。それにもうすでにどこかで他の人が言っていたことなのかもしれない。それでも私は、自分の思考として、不十分であろうと書くことを試みたい。

亡くなられた人、今も苦しんでいる人という被害者の存在がある。それに対して、彼らは間違いなく加害者だ。これは言い切ってよいだろう。被害者に対して、加害者は償わなければならない。償いきれるかどうかという問題はあろう。彼らは最後、死刑に処せられた。私たちは彼らを死刑にした。紐にくくって穴に落とした。我々が彼らの罪に対し罰を与えた。

しかし同時に、彼らもまた犠牲者だと思うのだ。

不謹慎な例えかもしれないが、津波の被害者とは言わない。でも津波の犠牲者とは言う。被害者という言葉と犠牲者という言葉は分けて使うべきだ。

生贄。人柱。これらの言葉は犠牲と同じ範疇ではないか。犠牲とはもともと、やり場のない怒り、矛先のない怒り、悲しみ、諦め、そのような人の努力では到底超えられない苦難を、それでも人が受け入れるために産んだ概念ではないだろうか。その言葉に我々は、自然災害という形に顕現を信じたカミの怒りを鎮めることから、築城等の難事業の推進を祈願することまで包含する意味づけを与えた。カミの名の下に人を殺すことも合意された。言葉が飛躍していると思う。言葉からどこか自分勝手な響きが聞こえるのはこのためだ。

でも我々は、あの事件を、被害者と加害者の関係で終わらせてしまってはならないのではないか。加害者と被害者だけに背負わせてはならないのではないか。自分勝手な言葉であることの自覚の上に、このような事柄にこそ、犠牲という言葉を使い、そこに彼らも含めなければならないのではないだろうか。

傍観者である我々、被害者にならなかった我々は、あの事件の加害者を穴に落とすことに同意した。彼らへの罰として。そしてそれで終わりとした、かに見える。

しかし我々全員が受け止めるべき事柄として、言葉に都合のよいいやらしさがあるかもしれないが、彼らを犠牲者と見なくてはならないのではないか。そして私たちは言葉の都合の良いいやらしさを乗り越えなければならないと思うのだ。

では何に対する犠牲か。これは難しい。今は仮に、それは我々の世間が持つ悪に対する犠牲であるとする。あるいは、それは我々自身の悪に対する犠牲であるとする。

加害者である側面に対しては、罰することが必要だったのかもしれない。でも、加害者である側面を穴に落として蓋をするだけで終わらせてはならない。犠牲者である側面について、我々はもっと語り合わなければならない。犠牲者を生んでしまったあの災いへの矛先を、我々自身に向けなければならない。災いは我々自身に由来する。このことを何としても皆で考えたいのだ。

犠牲という言葉で彼らに向き合い、そしてこの言葉を乗り越えなければならない。そしてそうすることは、我々への傷を伴うだろう。それでもやらなければならないと思うのだ。