祖母の思い出③

祖母は、年々歩くことが難しくなり、しまいには家の中でも杖をつくようになった。それでも京都に住む叔母は、この少し難しいところがある自分の母親と同居する嫂に気を遣ってか、彼女の気分転換になればと言って、時々、祖母を自宅に招き、1週間とか十日とか預かってくれた。そのようなときには、電車に乗るには歩けない祖母を、単身赴任して普段は家を留守にしている父が、自動車で京都まで送っていくのであった。

その時もいつものように予定の日数を終えた頃、そろそろ叔母の家での生活に退屈してきただろう祖母を、父は自動車で迎えにいった。帰ってきた祖母は、叔母の家では歩く距離が極端に少なくなるので、行く前よりも体がなまって帰ってくるのは常のことだった。しかし、いつもは何日か経てば元に戻っていたのだが、このときは様子が違った。首が痛いとしきりに訴えるようになった。

首がまっすぐにできないのだ。もともと背中が曲がっていたが、今回は普通のレベルではなかった。とにかく首を伸ばすことができないから、寝る時も、枕の上にさらに座布団を丸めて置き、首を持ち上げる格好でないと眠れなかった。病院でも原因はわからなかった。しだいに昼間でも、自立して頭を首で支えることが難しく、ベッドで横になる時間が長くなっていった。

歩行器、介護ベッド、スロープ、ポータブルトイレと、家の中には介護用品が増えていき、いつのまにか祖母は、要介護の人となっていた。デイサービスやショートステイの利用もはじまった。あっ、という間すらなく、全てがどんどん進行していった。

その前々々年と、前年、私の母の、父と母が順に他界した。母は、この実の父母の看病や介護に、とても言葉にできないような壮絶な時間を過ごした。それが終わった矢先のタイミングでもあった。

夫の母親の介護に手を動かしながら、私の母はよく、「(他界した)じいちゃんやばあちゃんのときは、こんなに上手にできなかった」と言った。実の父母に、十分な世話をしてやれなかったことを悔いているのだった。でもそれは、側から見れば決してそうではなく、むしろ同居している母の兄家族よりも、私の母の方が、祖父母に尽くしていると私などは思っていた。でも今回祖母の介護に向き合いながら、母の心の中には、そのような実の父母への贖罪の気持ちが働いていることが私にはわかった。だから私は、それは違うよとは言えず、黙って母を手伝い、その贖罪の時間に寄り添うしかなかった。その時間に対し母なりに与えた意義を少しでも否定することは、ここではあまり意味のないことだと、自然とわかっていた。

平日も休日も関係なく、夜、眠っていると、ちょうど私の部屋の真下にあたる一階の祖母の部屋から大きな声が聞こえてくるのだった。深夜に寒い中を降りていき、祖母の部屋にいきどうしたのと聞くと、祖母は、少し前に大きな声を出したことも忘れて、逆に「なに?」と聞いてきた。静かに寝ててなと言って、布団を祖母の首元までかけ直してから自分の部屋に戻っても、すぐは眠りに復帰することができず、この頃の日中はいつも寝不足気味だった。

少しずつ介護のいろんなことに疲れてきた。それでも祖母と母と私だけが住む家では、自分にある役割がわかっていた。その役割を全うしなければと思った。週末には父が帰ってきた。そんな時は、母は祖母から解放され、日頃の不満を父にぶつけるのだった。それは祖母にとっても同じだった。父はこの2人の女性の不満を黙って受け止める役だった。一方私には、祖母も母も、何も不平を言わなかった。父や母の言うことを聞かない祖母だが、私の言うことには黙って従った。いつからか、祖母の歯磨きは私でなければスムーズにできないようになっていた。

1年ほどはなんとかなった。しかし大変だという実感は少しずつ増していった。母は調子を崩すことが増え、食事や会話のさなかでも、一人別室で横にならなければならない時間が頻繁になった。血圧を下げる薬を服用するようになった。ショートステイよりも長い時間を預かってもらうことはできないのかということが、父と母の間ではよく話題に上るようになった。一人単身赴任先に別居する父から、この話題が持ちかけられた。この話題が上る時は、いつも複雑な空気が漂った。しかしこの空気は、それが正しいものなのかはわからないが、我々にとってはその場に存在することを要する空気だった。とてもそれなしで、あっけらかんとしてこの話題について会話することなどできなかった。

そしてそれは、母にとっては、先に他界した自らの両親への贖罪の気持ちに通ずるものであった。だから私はこの話題に対し、自分の考えはあっても、「そやなあ」という以外に、具体的な言葉を発することができなかった。