4月27日(火)

風呂に入る少し前まで知らない人のブログを読んでいた。風呂に入ってからも体を洗い湯船に浸かる間ずっと、ぼーっと、その人のブログについて考えていた。ふと思い浮かんだのは、ブログを書くことって、インドの人が、ガンジスで祈りを捧げることと似ているのではないか、ということである。

昔読んだ旅行記で、ガンジスのほとり、河を、牛糞やゴミが流れていくさま、焼かれた死体が流れていくさま、そしてそのすぐ隣で、人々が祈りを捧げるさまが綴られていた。そのように清濁あわせ呑み込み流れる河に向かって、祈る人々は、その祈りが彼方にとどくことを願っていた。そしてそのような人々を、離れた場所から眺める旅人がいた。

私が誰かの書くブログを読んでも、書く人が誰なのか、どのような人なのか、私は知らない。その人が世俗で生きる上で必要とする属性を落とした後の、その人の純粋な魂が、書いているのではないかと思う。そしてそれを読む私は胸を打たれる。

私もそのような魂に触発されて、あたかも旅人がふいに訪れた宗教的な空間の敬虔性に心救われるかのように、自分もブログを書きたいなと思うようになる。どこかにいる誰かが書いている文章が、その人がとどけばと願う人の元にとどいたのかは知らない。でも、それを傍で眺めている私にはとどいた。そして私の書く文章も、どこかの誰かにとどくことを願う。

この場所で、文章を書くということは、祈ることと同じなのではないだろうか。そしてその祈りがとどくようにと願う対象は、かならずしも神様ばかりではない。

とても個人的なことを書いている。世界経済だとか気候変動だとか、新型コロナウィルスだとか、そのようなことではなく、そのようなことから遠いところにある、私のごく個人的なことを、書いている。実際にはそのような世界から逃れられないのに。

そこに私が世間で生きる上での属性は、秘されているのかもしれない。しかしどのようであろうと、私は私の個人的なことを書く。

そしてガンジスで、どこからか訪れた旅人が、偶然にも、そこで祈る個人を眺め得たように、私が個人的なことを書いて、それを誰かが遠くから眺めることは、そしてそれを私自身も願うことは、決して、感傷や甘え、のみからではない。多くの人がこの岸辺に立っているが、そしてその一人一人は様々なことを思い抱いてそこに立っているが、動機が何であれ、畢竟、誰しも個人的な存在でしかないのだ。

インターネットは、対岸が霞んでしまうくらい大きな河みたいだ。そこでは、人は、自分の立つ岸辺から河に向かって何かを捧げ入れる。中には、醜いものや、危険なものもあるのかもしれない。でも私は、同じ河に向かい敬虔な祈りを捧げる人を、想像のうちに眺め得た。その人の姿に触発されて、自分も同じようにこの河に向かい祈ってみたいと思うようになった。

今日書いた、空っぽかもしれない私の文章が、それでもどこかにいる誰かのもとに届くことを願う。