父②

毎年5月3日は、このあたりの農村では「のどめ」と言う。素朴に「野止め」とでも書くのだろうか、忙しいさなかの田植えも、この日だけはいったん休み、村々は昔からの祭りに賑わった。

しかし今年、人が集まるのを避けるため祭りは中止となった。毎年この日、親族が集まり食事を共にすることを楽しみにしていた母方の祖母を思い出すと、今は寂しい。

 

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私は、この連休は職場の引越しがあり、その作業のため、一昨日と今日は家にいなかった。

この両日に挟まれた昨日、妹の家に、両親とお米を持って行った。送ればいいのにと思ったが、母の説明によると、今年は妹も帰省しにくいだろうから、こちらから理由をつくって、数時間でも会いにいこうということだった。

いつもなら父が運転する自動車に母が乗って、2人だけで行くのが常だった。しかし今回は私も一緒に行ったのは、両親が誘ってくれたということもあるが、この2年間、休日であってもほとんど修士論文のために大学に行き、実質的な休みをとれなかったのが、久しぶりに遠出してみたいと思ったからだ。いつもと違うことをして気分を変えたかったのだ。

車には、お米以外にも家の畑で父母が育てた野菜も積んだ。父と母を乗せて、私が運転した。妹の住む都会の街まで、高速道路で2時間の距離だった。

 

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修士論文を提出した後の、1月下旬、両親の勧めるままに見合いをした。両親の知人が持ちかけた縁談だった。

祖母の忌が明けた3月、今度は相手と互いに連絡を取り合って、2回目に会う機会を持った。しかしその人の看護師という職業柄、会っているあいだでも、互いに世間の目が気になって、なんとなく表情を晒すことがためらわれた。それは物理的にだけでなく、心情の上でも、素顔で接することを難しくさせ、打ち解けるということができなかった。おそらくその人も同じように感じていたのだと思う。その次に、3回目の連絡を取ることは難しかった。

どちらからも連絡ができないでいた。このことを両親には伝えていた。しかし相手の人には、自分からきちんと連絡して伝えなければと思っていた。きれいに終わらせなければならなかった。でも優柔不断な私にはそれができずにいた。

母が、そのようなある日の晩、平日は単身赴任で父がいないので2人で食事しているときに、お父さんから間に入っている人に伝えてもらおうか、と言った。

こんなことで父を頼りたくなかったから、私は、いや、いいと言った。

しかし私は、グズグズと、連絡ができなかった。そうしているうちに、2度目に会ってから一ヶ月が経とうとしていた。

母は相手の人のことを気にして、もう一度、それとなく状況を私に聞いてきた。今度は、私からお願いした。母は、お父さんならうまく伝えてくれるからと言った。次の日の晩、週末にかけて単身赴任先から帰宅していた父に、母がそのことを伝えた。

その翌日、仕事の間、なんとなく気分が重たかった。夜、帰宅して、父と母と食事のとき、こちらから聞く前に父の方から、伝えておいたから、と言った。

私は、お父さんにはイヤな役を引き受けさせちゃったね、と言った。

父は、間に入った人も理解ある人だから大丈夫だよ、よくあることだから、と言った。

 

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妹の家に着くまで2時間の道中で、きっとこの話も含めた、自分の縁談に関してが話題になるだろうと思い、自分の意志で行こうと思ったにもかかわらず、この長い時間を父母と車内で過ごすことに、出発前は気が重かった。

 

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いま、おそらく、父と母の最大の懸案は私の身の振り方についてだった。私と毎日顔を合わせる母はもちろんのこと、普段は家にいない父も、一週間のうち週末だけ家にいる間、私の顔を見ると、いつもそのことについて話したそうにしているのが、よくわかった。

私自身も、ぼんやりと、このままではいられないなとは思っていた。しかしそうかと言って、では何か心に決めているのかというとそうでもなく、ただ、目の前にやらなくてはならないことを積み上げ、それを処することに時間を埋める日々を送っていた。

そのような私は、両親の、特に父の目には、現実を見ようとしていないと映っていたのだろう。

一週間に一度の、父親の「役割」に対する責務からか、もしくは父個人の人間性からか知らないが、父はよくその話題を持ち出すようになった。まるで祖母の介護と私の縁談が、同じ舞台上で、主役の座を入れ替わったかのようだった。

このことについて話すのは父にとっての「正しさ」だった。そしてそれが、決して「間違い」ではないことも私には理解できた。しかしそれだけに私には、かえってこの父との会話が、「しんどい」ものであった。

 その「しんどさ」は、子どもの頃から抱く、父に対する複雑な感情を、含んでいた。

別に、ひどい父親であったわけでもない。暴力を振るわれたこともない。父が働いて得る収入のおかげで、おそらく経済的にも恵まれていた。

何か、目につく問題があったことは一度もない。おそらく世間の「父親」の中では、よく「できた」父親だったと思う。

 

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しかし私は、それでも父のことを「嫌う」感情が、常に内在していた。