父③

連休も今日が最終なので、明日からまた始まる仕事のことをときどき思いながら、私は家でずっと、ぼーっと過ごしていた。

今日は朝から、雨降りがつづいている。父と母も、昨日と一昨日は、夕方近くまで畑仕事をしていたのが、今日は外で作業することも叶わず、家でゆっくりしていたようだ。

 

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昼過ぎに、車で外に出かけた父と母が帰ってきたとき、母は木の箱を抱えていた。どうしたのそれ、と聞いたら、いつもの茶舗で譲ってもらったと言った。中には、大黒天と恵比寿天の、精巧な置物が入っていた。ついこの間、茶葉を買いに行ったときに、そこの老主人から勧められたとのことだった。

なんでも、老主人の旧知の間柄の人で、たちまちのお金を必要とした人がいて、なんでもいいから買ってくれと、所蔵する古道具をいくつか店に持ってきた。そこで老主人は、中からこの置物を、自らの言い値で購入したものの、眺めているうちにそれが良いものなのか悪いものなのか自信がなくなってしまい、その同じ日にたまたま茶葉を買いに来た父と母に、買ったばかりの置物を又買いしてくれないかと、頼んできたらしい。老主人が言うには、自分の鑑識眼に自信はないが、これを所持していた家は結構な旧家だから、不味いものは置いてないはず、とのことだった。

その売り文句もおかしいが、そんなやり取りだけでお金を払った父母も、おかしかった。もとより母は購入することに反対だったらしいが、父がどうしても買いたいと引き下がらず、あまり口論になってもかえって馬鹿を見ると最後は母が折れ、日を改めた今日、購入する運びとなったのだった。

 

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どう思う、と母に聞かれた。

いくらで譲ってもらったのとは、私は聞かなかった。

ただ、なんか、「豊か」なやり取りだなと思えた。だれもコセコセしていなくて。(聞いている限りでは)だれも儲けようとなんて考えていなくて。もちろん、いくらかの金銭は介しているものの、でもそれより、物が、「ご縁」で動いているなと思った。

だから母には、いいんじゃない、とだけ応え、その二体の置物をしばらくのあいだ手に持ったり眺めたりしたら、物の評価については言わずに、自分の部屋に戻った。

 

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このように私の父にはときどき、面白いことが起きる。そんなときは私も、ゲラゲラ笑ったりしながら、心底、愉快な気持ちになれるのだった。

でも同じ心の底の、別の部分では、父のことを苦手に思う気持ちがなくなるということはなかった。そのように思ってしまうことを、父には申し訳なく感じている。これはなぜなんだろうかと、ずっと考えてきた。

「反発」と言ってしまえば簡単で、たしかに、父とやり取りしていないときには、この感情は目を覚まさない。私が父に対する苦手意識、率直にいって「嫌う心持ち」を抱くとき、それは、父が何かの発言をしたときで、それに対するリアクションがどうしても反発という形になってしまうのだと言えば、一定の説明にはなるかと思える。

だが、それだけではなんか違う。

では「価値観の違い」はどうか。確かに、父と私は、価値観が全く異なる。父は、どちらかというと、定量的な価値観を多分に持つ人間で、だからたとえば、TVで観るお笑い芸人が面白くて、この人すごいねえとか言っても、「あの人は〇〇大学出身だ」と言ったり、今日手に入れた置物にしても、裏に刻印された銘をインターネットで一生懸命に検索したりして、自分が得ている満足に対し、いつも定量的な裏付けを与えたがる。むしろ、定量的な裏付けがないと満足は十全ではない。それに対し私は、どちらかというと定性的な価値観を大切にしたくて、だからたとえば、自分が何かに感動して、それを父や母がいる場でエモーショナルな言葉で表現したときに、そのリアクションに父が発言したとすると、たいがい、そういうことじゃないんだけどなと、父の前で発言したことを後悔する。

決して、父の感性をけなしているわけではないし、自分の感性の方が父より高級だと考えているわけでもない。これは言ってみれば、人ごとの、心の片の付け方の違いなだけである。このような価値観の違いの意義を認めるからこそ、かえって、自分と違う感性を持つ人に対しては、すごいなと思える。実際に私は、父のことをある面で尊敬している。

 

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それでもなぜ、父と私は相容れないと、私は感じてしまうのか。

今は明確に言葉にできない。しかしなんとなくそれは、突き詰めれば、「正しさ」を巡る場所に着地するのではないかと、うっすら、感知している。