梅雨も極まった。水分を含んだ空気が、歩く体にまとわりつく。そのうち、体の奥からの汗と、空気中の湿気が混ざり合って、歩くのが泳いでいるようだ。

仕事を終えて、まだ明るいうちに帰る、夕方の空には厚い雲と、そこから重たい空気が垂れ下がって、地上の緑は濃い。植物はいま一年で最も生き生きとしている。

熱を帯びた私の体にはエネルギーの抜け穴がなく、ところどころの皮膚が痒い。歩きながら、掻きむしりたくなる。

マスクは、駅を出たら真っ先にはずしたい。街を行く私の他にマスクしてないのは、自転車をこぐ高校生くらいだ。でも、一人で歩く、蒸し暑い夕暮れは、おもいっきり外の空気を吸い込まないでは、いられない。

 

梅雨は、もうすぐ終わるだろう。そしたらまた本格的に暑い夏がきて、そのうち台風もくるようになるだろう。

 

7月は、あるいくつもの処刑のことを思う。

あれらの処刑は、加害と被害の間で折り合いをつけるためのもの、それとも、何かの犠牲に捧げられたもの、なのか。

あの暴力は、私が暴力を委ねた国家(暴力装置)が行使した暴力なのだから、あの暴力に対して、私は当事者だ。あの暴力は「私の暴力」でもあるのだ。

 

こんなに空気がおもたいのに、私の日常は、梅雨のどん詰まりの底で、つまらない不平や不満を巻き上げながら進行している。遠くの街で起きた災害のニュースにも、自分の「正しい」振る舞いを見出すことができない。

 

私はただ暮らしている。