朝から自動車で外出した。湖の向こう側にある小さな温泉に久しぶりに行ってみたいと思った。最近、忙しい日々が続いていたので、どこかで骨休めがしたいと思っていた。

道中、目に映る山々の木々は色づいていた。色味は、どちらかというとやさしい黄色がまさっていた。湖面は波もなく穏やかだった。

そのような秋晴れの風景に包まれた中、自動車を運転しながら、死んだ後輩のことを思った。

今日は、彼女の葬儀の日と聞いていた。

 

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訃報を聞くまで、この15年近い歳月の中で、彼女のことを思い出すことはなかった。それでも15年前に学生だった頃は、彼女と同じ部活の先輩後輩の仲として、ごく当たり前に親しく接していた。学生だった彼女の姿を、声を、今でもはっきり思い出すことができる。

彼女にとって私は何人かいる先輩の一人でしかなかっただろうし、私にとっても彼女は何人かいる後輩の一人だった。特別に親しいという訳ではなく、「当たり前」より以上の関係はなかった。

今あらためて振り返ると、彼女は、元気で明るい姿とともに、時々、内向的と取れる性格も感じさせる人柄だった。そして周りの誰からも愛されていた。

 

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しばらく会わずにいる人のことを思い出すのに、その人が生きているのと、もう死んでしまっているのとでは、やはり違う。たとえ生きていてももう二度と会うことはないだろうなと思っている人でも、生者と死者とではやはり、違う。

生きている人を思い出すときは、あの人は今どうしているかなと思うことができる。でも死んでいる人を思い出すときには、それができない。生前どんな関係だったにせよ、死者の追憶には喪失感が伴う。未来の「埋め合わせ」を想定することができない。

でもなぜなのか、彼女に比べれば余程近くで暮らし、肉親という意味で当然親しかった祖母の死に比べて、彼女の死の方が、喪失感をより強く感じさせる。

逆説的だが、より親しかった人を亡くした喪失感よりも、より疎遠だった人を亡くした喪失感の方が、大きいもののように感じている。少なくとも今日は。

これは、疎遠になっていたことの罪悪感みたいなもののせいなのか、わからない。

このことは彼女だからなのか、わからない。

 

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「死」というものは一般化できない。「死」は、「その人の死」だけが存在するのだろう。誰しもに共通する「死」など存在しないだろう。

「一人の死」「二人の死」「百人の死」と、現象としての人数を数えることができても、死の存在として言えるのは「一つの死」だけだろう。「死」は、死ぬ者にとっても生きる者にとっても、当事者としての経験しかないだろう。

 

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後輩の葬儀の日、どこで何をしていても、ずっと、死んだ後輩のことが、ぽっかりとした空白として存在していた。