祖母の思い出④

夜、風呂を上がった後で、火照った体を冷ますのに、下着だけで、バスタオルを首にかけ、座敷の部屋隅に置かれた椅子に座って、床の間の祖母の遺影をぼーっと眺める。体の火照りが十分におさまれば、遺影の前で正座し、鈴を二度鳴らして手を合わせる。ここでやっとパジャマを着る。

それから食卓のテーブルで、コーヒー飲みながらPCを開く。今夜も祖母の思い出を書きたいなと思う。祖母の元気だった頃のことを覚えていたいと思う。きれいな祖母を、文章の中にとどめておきたいと思う。

しかしそれでも、自然と憶い出されるのは多くの場合、晩年の祖母で、そのシーンには様々な感情が伴う。祖母自身も、認知症の自分はイヤだったろうなと思う。でも周りの人間も苦しかった。人間は感情の生き物だ。自然に湧き上がる感情には素直に向き合いたいと思う。

認知症で耳も遠くなった祖母の前で、どうせ聞こえていないだろうと思ってイヤな会話をしたことがある。祖母のために小さく刻んだおかずを、祖母が残さずきれいに食べ終えてくれたときに嬉しかったことがある。排泄の世話だけは、最後まで一人でできなかった。朝、仕事で家を出るとき、祖母にいってきますと言えるのが嬉しかった。祖母の調子が良いときは、もう何度も同じ内容の繰り返しだったが、思い出ばなしが弾んだ。ときどき母が投げかけるキツイ言葉に、祖母のことを不憫だと思った。また同時に母のことも、大変な思いをしていると思った。仕事を辞めない父のことを憎んだ。

でもこうした一切合切の感情が、今はもう、どこか遠くにいってしまった。

祖母は元気な頃の姿で遺影におさまっている。かつて介護用品がところぜましと並んでいた祖母の部屋は、整理され、ひ孫たちが集ったときの遊び場と化している。

でもなぜ、畳の部屋なのに、フローリング調のマットが敷いてあるのか。なぜ、テーブルの脚や、トイレの壁の所々に、こすったようなキズがついているのか。今ではもう、それらの跡に秘められた記憶を思い起こすことが、難しい。

人間は感情の生き物であるのと同時に、記憶の生き物だ。この記憶は、自分が生きることを可能ならしめるように、都合よく編集されていく。一昨日よりも昨日、昨日よりも今日と、日々、記憶は美しく薄められていく。

母の弟が母に言っていた。良い思い出だけを残して、すべて流れていくから大丈夫だよ、と。この叔父もまた、すこし前に、長い介護の果てに義父を看取ったばかりだった。

でも私は思う。きれいな思い出だけで良いのならば、それはあまりにも自分に都合が良すぎる。私は自身の醜い感情も共に記憶して、生きていきたい。

 

***

 

私たち家族は、祖母を施設に預けることを選択した。昨年の5月、新型コロナウィルスに、親族の間でも疑心暗鬼の眼差しを向け合うようになりつつあったさなかのことだ。

私自身、その数週間前、ベッドで横になる祖母の手と口の周りに排泄物が付着しているのを見つけ、帰省していた妹の手を借りて、お湯で濡らしたタオルで祖母の口と手を拭いながら、もう孫としての役割は十分に果たせたと思った。

それから施設に祖母が移る前の最後のチャンスと、新型コロナウィルスの広がりが恐れられる中、叔母たちも久しぶりに実家に集まった。この叔母たちは、どうして、認知症がひどくなっていく母親に、これまで会いに来ようとしなかったのだろう。それがなぜ、この今になって、こんなにはしゃいでいられるのだろう。介護にやつれた母の心中を思うと、久しぶりの会話に素直に交じっていくことができなかった。

祖母が施設に移った日の数日後、他県に住む叔母の一人が、別の他県に住む友人と会うのにうちを使いたいと言った。実家なのだからさも当然ということだった。

やりきれなかった。祖母を施設に「預けてしまった」私たち家族の心情を少しでも思ってほしかった。

その話を聞いた妹が、叔母に電話した。そのときから叔母と妹の間には、今でも修復されない亀裂が残った。しかし叔母が友人との再開にうちを使うのは取りやめになった。

 

***

 

祖母の施設を訪ねても、面会は、屋外からガラス越しでしか叶わなかった。私は祖母が施設にいる間、一度しか面会に行かなかった。仕事と大学院を両立する忙しさにとりまぎれ、祖母の存在を片隅に追いやってしまっていた。そうしているうちに、祖母は食事を摂ることができなくなっていった。

病院の、療養病棟に入院した。この病院にすら、私は一度しか見舞に行かなかった。新型コロナウィルスの感染防止とは、都合の良い言い訳でしかなかった。祖母が視界に入らない生活が、もはや日常になっていた。その一度の面会のとき、祖母は、私が名乗るよりも先に、私の名を呼んだ。実の息子の名すら思い出せなくなった祖母がである。

翌年、正月休暇が明けて数日後の木曜日、午後、職場にいるとき、スマートフォンが鳴った。母が、祖母の危篤を知らせるものだった。病院に着くと、呼吸器をあてられた祖母が、苦しそうに横たわっていた。母の呼びかけには応じなかった。でも意識があることはわかった。

祖母の手をさすり、自分の名前と、今まで来れんくてごめんね、と言った。祖母は呼びかけに目を開いてくれた。窓から見える外は大雪だった。おばあちゃん、外は大雪、寒いなあ、と言った。祖母は、かすかな声で、「でんち」はないんか、と言った。

これが祖母との最後の会話になった。私以外で、この日、祖母とまともな会話ができた者は、誰もいなかった。翌一日、祖母は頑張って生き、次の日の午前一時過ぎ、病院から祖母の最期を告げる電話が、父のスマートフォンに入った。前日の午後九時頃から容態は思わしくなかったらしいが、新型コロナウィルスの感染防止のため、臨終の直前になるまで、家族であっても連絡が躊躇された。