かつて職場の上司だった方で、定年まで数年を残して退職された方と、先日、喫茶店で会った。

 

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その数日前に、その方と、他に二人(この方たちも同じ職場で働いていた、元上司と同世代の人)と、私の、4人でお遍路に行った。私以外は今回が3回目で、札所も、すでに36番まで回っておられた。私は37番札所からのスタートだった。もちろん今回が初めてだった。

以前、比叡山での一日回峰行に参加したときに、無動寺坂をなんとか先達の僧と一緒の集団について登りきって、明王堂の前で、最後、皆で般若心経を唱えたときの、体中を駆け巡るような達成感、解放感を、今でも覚えている。しかし今回のお遍路ではその時とは異なる趣の、まるで湧き水がチロチロと満ちていくような、静かにやって来る充足感を、いくつもの札所を回る中で少しずつ感じていった。とくに心に残るのは、大師堂の中に座す弘法大師像だった。それぞれの札所では大師堂の奥に座す大師像に、あたかも弘法大師の面影が確かに存在しているように感じられたのだ。これは、最初からそうだったのではなく、いくつもの札所を訪れる中で、なんとなく、大師堂の奥に意識を凝らすようにしてお参りするようにしていたら、なんというか途中から、「見守られている」ような気持ちになっていた。

遍路とはきっとこのことなんだろうなと思った。札所から札所へと移動する自分を見守ってくれ、たどり着く先々の札所でも、自分を待っていてくれているような、大師の優しい面影を感じ、そして出会うというような。

 

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そのように、私にとって得難い時間となったお遍路に誘ってくれた元上司と、喫茶店でいろいろ会話した。話題は、次回の遍路行きのことや、最近の仕事の話、双方の私的な事柄など、多岐に渡った。

そして私は、会話しながら、昔もこんなことがあったなと、懐かしい気持ちになった。それはかつて東京で働いていた頃に通っていたバーでの、自分の父親と同じくらいの年齢の人との交流だ。その当時、バーで私は、たまたま隣同士に座り、意気投合して、それからもなんども同じカウンターで会うようになったその人から、彼が語る話を聞くことが好きだった。

人は、自分が体験したことからしか、本当の意味で誰かに語ることなどできないだろう。人生って、いろんな人生があるんだ。それは自分の人生にどれだけ目を凝らしてみても、決して見ることができない一つの物語だった。そしてそれは、自分の父親とはできようもない会話だった。そしてそれは、ときに私の肩を、フッと軽くしてくれる。

大人になるという契機を経ることが持つ一つの大切な意義は、このことだろう。つまり、肉親同士では伝えられないことを伝えられることだ。それは、若者が、生きることが抱える秘密に触れるということだ。一言でいうと「自分の人生がすべてではないよ」ということを、知ることだ。

 

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それでもいつのまにか私は、「自分の人生」の中でもがくようになっていた。

生まれ育った街に帰ってきて、良かったことはたくさんある。特に、祖父や祖母たちの死を、最も近い場所で見届けることができたことは、このことのために帰ってきたのかなと思えるような、私の中でも、本当に重い体験を残してくれた。

それでもいつのまにか、私は、自分の手を伸ばせば届く範囲の中だけで、生きるようになっていたことを知った。

茶店での、元上司にとってはおそらく何気ないものだっただろう会話を終え、帰る道中、私の心は、本当に久しぶりに、まるで傷あとからカサブタがパラリと落ちた後のような、ある種の心地よさに包まれていた。