夕方まで、家で寝転んで本を読んでいた。あと数ページで読み終えるところに来て、少し疲れたから、読んでいたページに指をはさんで、起き上がり、サンダル履いて、本持ったまま外に出た。昼間は暑かったが、この時間には風もあり、涼しかった。

路地の、入ったことのない角を曲がると、通ったことのない川沿いに出た。川に沿って緩やかな曲線をかたどる建物の白い壁一面に、緑の葉がびっしりつたっていた。少しづつ夕闇が迫る町の川べりに立って、しばらくの間、たぶんもう現役ではないその建物を眺めていた。どこかしら自分が物語の中にいるような気になっていった。何羽ものカラスが鳴きながら、近くの空を飛び去っていった。ちらほらと夕暮れ時に散歩する人がいる中で、マスクしていないのは私だけであることに気づいた。

このとき家から手に持ったままでいたのは、『考える生き方』という本だった。数年前に出た時に読んでいたが、最近また、読み返していた。まるで30代半ばを過ぎてからまた手に取ることを待っていてくれたかのように、本の文章が、静かに沁みた。

 

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いま、これを書いているのは、短い散歩から帰り、残りのページを読み終えたあと、晩御飯も風呂も終えて、両親が2階で寝静まった後の、1階の台所である。本を読みながら昼寝もしていたので、今は目が冴えている。

 

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なんとなくわかっていたことだが、この本を読み返し終えて、改めて思ったことがある。それは、このままではいけないだろうということだ。

自分は、そんなにこだわりの強い人間ではないと思っている。しかし、10代から、20代、30代と、それなりの変転がある一つの固有の人生を送ってきた中で、知らないうちに、ある種のスタイルが身についていたのだろう。

そしてその人生の時間は、一度纏ったスタイルと、馴れ合う時間でもあったのだろう。このスタイルが眼前の意識にのぼったことはない。しかしおそらく私は、そんな目に見えないものであっても、これを失うことを拒み、何かと理由をつけて、あるいは何の理由もなく、安楽な選択をし続けてきた人生だった。そう、スタイルを守ることは安楽なことだった。

『考える生き方』の著者が書くブログが好きで、学生の頃から読んでいた。それを、いつの頃からか、なんとなく読まなくなっていた。

この間の人生にも、自分にとってはそれなりにいろんなことがあった。そんなあるとき、そういえば読まなくなっていたあのブログを改めて最初から読み直そうと思った。もしかしたらこれまでの人生をもう一度生き直すことができるのではないかと思った。

ブログを読み始めてみると、生き直すとまではいかなかったが、それでも、過去からの人生を上空から見下ろしつつ、足早ではあるが、もう一度時間を通り過ごしていくような気になれた。

思えば、私の社会生活の時間のほとんどは、仕事に費やされる。それ以外の私的な時間で、本を読んだり、旅をしたりする。そのような時間は、長さだけでいえば、一日あるいは一週間の、どちらかといえば僅かな一部だ。しかしこの僅かな時間の方が、かえって人生においては中心なのだ。

人生は、2つの登り棒を行き来しながら、上に登っていくようなものなのかもしれない。生きている時間の中で、ほとんどの時間を、一方の棒を登ることに割いている。しかし別の棒に、ひょいと飛び移る時がある。そんな、こちらの棒にいられる時間はつかの間のことかもしれない。しかしその時間にいるあいだに、実は大切なことをしている。その短い時間があるから、もう一つの棒に戻っても、また上に登ることを続けることができる。

かつて、一日の仕事を終えてから寝るまでの僅かなあいだに、この著者のブログを読む時間は、人生における羅針盤を確認するような時間であった。社会に大きな事件が起きた時、この人なら、どう考えるかなと気になる存在であった。

この数か月は、そのような存在を喪失していた年月を取り戻すかのように、10年以上も前の記事から、一つ一つ順に読んでいき、その時その時の時事問題について考えたり、その時その時に出版されブログでも取り上げられた本の中から気になるものを読んだりしていた。そして、この著者が時折のぞかせてくれる、彼の内心の表出に対して(それは評論家でもジャーナリストでもない、一人の市民が持つ内心の表出だ)、言葉にするには難しいが、ひりつくような共感を抱いたりしていた。

いま、30代半ばを過ぎて読むことには意味があったと思う。今日現在でブログの読み進めはまだ2021年の現在に追いついていないけれど、なんだか、読まなかった数年間の人生のまるで答え合わせをしているかのようだった。

羅針盤の針は何を指し示していたか。私には2つある。

1つは、「市民として生きよう」ということ。そしてもう1つは、「一人の女性と向き合って生きてみよう」ということ。