世界が変わることについて

飛行機に乗って、世界の境界を越えたことがあった。目が覚めたとき、窓の外には、別世界が広がっていた。そこには、それまで自分が含まれていた世界におけるのとは、別のつくりの、顔や、皮膚の色や、言語を持つ人々がいた。

あるいは、わたしたちの感性にある、「常世」とか「彼岸」というイメージも、同様に世界についての、水平的な思考によるのだと思う。海や川の向こうに、あの世や、永遠といった世界が存在し、時々、そのような境界を乗り越えて、マレビトがこちらの世界にやってくることがあった。また自分が、あちらの世界に行くということもあった。

 

でも、現下の世における世界の変わり目として私たちが経験したのは、そのような水平的な移動ではなかった。私たちはかつてとは別の世界に生きている。が、これは、みんなですっぽり、それまでとは別の世界に入ったということだと思う。

「みんなで」入った。

誰かひとりだけが別の世界の夢を見ているのではない。私たちみんなが、今までとは別の世界を、現実として生きるようになった。

 

世界の終わりと言ったとき、かつては、「終わり」とは「果て」のことで、そこにたどり着けば、その先に別の世界の風景を見ることができた。でもこちらの世界にしても、あちらの世界にしても、世界自体は同時に存在し、その間を、自分や他者は往来することができた。

だがこの、世界そのものが変わるという突然の事態を経て、わたしはまるで、最低限の荷物すらも持たずにいつのまにかみんなと乗らされた飛行機から降ろされたような気になっている。そしてわたしたちが飛び去ってきた世界は、同時にもう存在していない。つまり帰る場所はない。

 

この、世界が変わったことに対して、適切な振る舞いはあるのだろうか。「新しい生活様式」という言葉は、なんだかむなしい。「アフターコロナ」とか「ウィズコロナ」という言葉も空虚だ。

そうじゃなくて。

世界が変わってしまったのだ。そして変わってしまったこの世界を、終わらせたい。しかし私たちはまだ誰も、その終わらせ方を知らない。

でも私は密かに思っている。政治でも法でもなく、自然科学ですらもなく、ただ文学の中にだけその大切なことが伝えられているのではないか、と。