2008-01-01から1年間の記事一覧

大学近くの公園では、早咲きの桜が、すでに満開だった。 相沢は、仲の良い友人と、会場で並んで座った。学長の式辞は、長く退屈なものであった。辺りを見回すと、久しぶりの顔がたくさんある。しかし、そのほとんどとは話したことすらもなかった。相沢は、学…

卒業式の日、私は、母からのプレゼントのネクタイを締めていた。 それは、朝、家を出るとき母が手ずから私の首に絞めてくれた。水色のチェックの柄で春らしい、私はひとめ見て好きになった。玄関で、はいっと言われて渡され、その場で締めていたいつものネク…

夕方、少し距離のある駅への帰り道、今度は彼女が自動販売機でジュースを奢ってくれた。その時には、暑さも幾分かは落ち着き、時折は、風さえ吹いていた。 途中、駅へのバスに追い抜かれた。バスに乗れば良かったね、と言った。そうだねと、彼女も言った。 「…

今も覚えている。 八幡掘沿いの小道を歩いているとき、少しぬかるんだ道で、湿った土に、履いていた踵のやや高いミュールを取られていた。前を歩いていた私がふと振り向いたとき、足の指先についた泥を、少しかかんでハンカチで拭っていた。そうしている姿は…

「ねぇ」 「何?」 「相沢君は、…」 「何?」 「…。今日、楽しかったね」 「うん」 「また、行こうね」 「うん」かつて多くの商人を輩出した、その町を歩いたことがある。彼女は、古い洋館が好きだった。町には、そういった洋館があちこちにあった。彼女は、日傘を差さない人…

思い出す。私は、彼女と琵琶湖畔のベンチに座って一夜を明かした。彼女は、いろんな夜景を見たけど琵琶湖の夜景が一番きれいだと思うと言った。実際、目の前の夜景はきれいだった。決して多くはない街の明かりが、湖面に映り、遠くの山々は、上の方がぼんや…

会社が終わると、いつも行く喫茶店がある。 そこにはいつも座る席があり、いつも飲むコーヒーがある。モカ・マタリ。香り高いコーヒーだ。いつも座る席で、いつものようにモカを飲む。ほの暗い店内には、良い音楽が流れている。相沢は、その心地よい室内で、…

夕方の影は、既に長い。 相沢の部屋の窓からは、それでも陽が何に遮られることもなく差し込んできた。本棚の写真立てには、今もその人と並んで撮った卒業記念パーティーの写真がある。写真の中で相沢は笑っている。彼女も笑っている。しかし、今それを見る相…

その日以降相沢と彼女との間で連絡は途絶えた。

しかしその人には、相沢の知らない男性が恋人として存在するようになった。相沢が東京に住むようになって、しばらくしてからその交際は始まり、相沢は、それを彼女からのメールで知った。彼女から、相沢が問いもしないことを告げてきた。それは唐突な連絡で…

*** 書かなくては。 ここでは、自分のほか誰もいない。自分が存在したということを、書き遺すことで伝えたい。私には、私を伝えたい人がいる。懐かしいその人は、幸せになろうとしている。喜びたい、と思う。しかし一度、会いたい。会って、喋りたい。 ***

*** 1日欠かすと、もう何も書けなくなる。 力が満たないと、書けない。つまり、相沢は、今何も書けない。 ***

卒業式を終え、相沢は、伝えられない思いを胸に秘めたまま、大学の街を去った。それからは、時々のメールのやり取りが何よりも嬉しかった。自分はまだ離れていない、大丈夫だと思っていた。ちょうど一年、そんな関係は続いた。

琵琶湖を、その人と二人で歩いたことがある。盆前の蒸し暑い日の夕方、何か話しながら湖畔の道を。とても暑かったことを覚えている。 夢について。彼女は、良い母になりたいと言った。相沢は、特にない、ただ、何かものを書ける人間になりたいとだけ言った。…

「あの人は、今、何をしているだろう」最後に会ったのは、大学の卒業記念パーティーの会場でだった。そのとき、相沢君は四月からどこに住むのと聞かれて、「東京」とのみ答えた。「東京」 「そう、寂しくなるわね。私はずっとこの街にいるから、遊びに来る時…

書けない。 書きたいのに、書けない。ここにコップがある、中には水が入っていない。たとえ水を注いでも、コップが水を吸い込み、一滴も中には残らない。そんな状態だ。相沢の焦りは極度に達した。山に入って、そろそろ半年になる。しかしまだ一作も書けてい…

夜、寒さで目が覚めた時、外は雨だった。 寝る前に閉めたはずの窓が開いていた。雨が、山小屋の中に吹き込んでいた。相沢は、起きて灯をつけた。部屋の隅におばあさんがうずくまっていた。おばあさんは、壁にもたれかかって床にすわりこみ、顔を、すわりこん…

女は、好きという気持ちが、捨てられると、 三倍にも四倍にも強い憎しみに変わるものです。 捨てられた女は、どこまでも男を追った。 男は、もう大分離れた場所に至ろうとしていたが、それでも女は走った。 情念。性の薄皮がはじけ、怒り悲しみ愛が、女の感…

ある男がいた。今年四十になるその男には、妻と、娘が一人いた。 男は、その年の春に三社目の会社を辞めた。そしてその一週間後の朝には、新しい職場に机を得ていた。再就職はそれほど難しいことではなかった。男には、それまでに少なからぬ実績があったから…

相沢は、歌を聴くことが好きだった。東京に住んでいた頃、MySpaceから適当に検索して好きになる歌と出会えたら、その歌を聴きながら自分自身の創作にふけった。書くことは、歌を聴くことで加速された。相沢にとって、歌は、小説の背後に存在するものだった。…

「カティー・サーク」相沢がまだ東京で働いていた頃、時々酒を飲みに行った。それは、大抵、土曜の夕方の、早い時間帯だった。 席に着くと、何も言わなくても、カティー・サークのダブルのオン・ザ・ロックが出された。相沢は、その最初の一飲みが、好きだっ…

ある晩、山小屋におばあさんがやってきた。 おばあさんは、何も言わずに小屋の入口に立っていた。相沢はペンを持って、原稿紙に向かっていた。夏は終わろうとしており、夜風はひいやりとしていた。おばあさんの背後には、暗い森が広がっていた。 「何をしてい…

相沢の実家は滋賀県で、家から琵琶湖までは歩いて行くことが出来た。夏のまだ涼しい早朝に、湖岸を散歩するのは楽しかった。また、夜の琵琶湖を、公園のいすに座っていつまでも眺めているのも、好きだった。相沢は、京都の大学を卒業後東京で住むようになる…

「盆」今日は、母の実家に来ている。 昼過ぎに着き、夕立の後、涼しくなったので、皆で墓参りに行った。 墓参りから帰ったら、そのまま夕ご飯となった。親類と、皆ですき焼きである。 そして、夕食の後、お腹いっぱいの腹を抱えて、一人、散歩に出た。街灯が少…

「ヤマノシヌイ」月夜の晩、四国のある山奥の川のせせらぎで、女がひとり、清らかな水を浴びている。月の光の中で、生まれたままの女のからだは、ほの白く透き通っている。女は、ある満月の夜に亡くなったおばあさんが流した涙が、この川でいのちを宿したと…

夢を見た。 相沢が、山奥の小屋の外、岩の上に一人腰かけて、夜の月を見ている。谷川で汲んだ冷たい水を飲みながら、遠く近くの微かな音に耳を澄ませている。辺りは、一層静かだ。月明かりに照らされた、彼の頬は、蝋のように透き通っている。 その頬の上を…

疲れたと、相沢は言った。 「疲れた。何をするにも、疲れた。俺は、今日限りで会社を辞める。実は、一つだけ、人生でやりたいことがあるんだ。」 何を? 「俺は、小説家になる。今まで貯めた金で、一年間山に籠もる。一年かけて、いい小説を、一つ創る。」相…